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鳥山明がいない世界線なんて、私の人生ありえない

この前からずっと、アニメ・漫画界隈での訃報が続いています。

その中でも、一番ショックだったのは、鳥山明さんの訃報でした。

そのニュースを知ったのは、夕方だったのですが、そのショックを分かち合えそうな人が周りにいなかったので、モヤモヤしながら帰宅し、SNSに流れてくる同朋の皆さんと一緒に悲しみをシェアしておりました。
それでも、信じられない。
心にぽっかりと穴が空いたような喪失感が、今だに埋められません。

1 わたしがDr.スランプアラレちゃんだった頃

小学生のとき、町内会の仮装大会で友達と一緒にDr.スランプの仮装をし、優勝賞品のビスコ1年分を勝ち取ったことがありました。背が低くて、髪が長かったので、母の黒眼鏡を借り、オーバーオールを着てアラレちゃんになった私は、その後しばらく「アラレちゃん」と呼ばれることになりました。

柔道整復師になりたてで、祖父の医院で働き始めた叔父は、もじゃもじゃ頭で、若い患者さんたちから「千兵衛さん」とあだ名をつけられていました。その叔父が
結婚することになり、(私の叔母になる人)綺麗な幼稚園の先生だったため、「緑先生」と呼ばれるようになってしまいました。
祖父の始めた整骨院で、若先生として働いていた叔父は、祖父亡き後、立派に跡を継いでまだまだ現役で活躍しています。


2 ドラゴンボールから、ドラクエに助けられた新米時代

アラレちゃんから、ドラゴンボールへ連載が続いてからも、鳥山明先生の漫画は大好きでした。

ストーリーも好きでしたが、大人になると、一枚に描かれたイラストを見るのがとても好きで、今、スマホの待受はDr.スランプのイラストになっています。

生徒たちのノートの落書きは、決まってドラゴンボールのキャラクター。
フリーザー様、ピッコロ様、絵の上手さを競ったものです。


ドラゴンボールも、いまだに続いていたり、昨年は「サンドランド」が話題になったりと、鳥山先生が亡くなる世界線なんて、考えたこともなかった。

キャラクターの可愛さはもちろんだけれど、私は漫画に出てくる車やメカがとにかく好きでした。


3 大人になっても、やっぱり好きだ



最近だと、スズキのハスラー(初代)のCMに、アラレちゃんたちのイラストが使われていて、あの車のデザインは、鳥山先生なのか?というのも話題になりました。
(ちなみに、私の現在の愛車はこれ。)


海外旅行に行っても、留学をしていても、
どこの国でも、テレビで「ドラゴンボール」を放送していました。

セリフ自体は色々な言語で吹き替えされているのに、
どの国でも「かめはめはー!!」は「KAMEHAMEHA-ーー!!!」

外国で、教育実習に行っても、
「TENDO-GAME」と「DRAGON BALL」の国から来たというだけで、
無条件に子どもたちと仲良くなれたのです。

こんなに有名な漫画家だったのに、表舞台に出てくることはほとんどなかったそう。で、コミックスを買っても、いつもあの「自画像イラスト」だったなあ。
亡くなって初めて、「こんな方だったんだ」と思いましたが、
鳥山先生は生前「写真はあまり出さないで欲しい」と言われていたそうです。

「サンドランド」の続編があるかも、とか、
楽しみな情報を聞かされていたので、突然のお別れにどう考えたら良いか、
いまだに整理がつきません。

私の幼少期から青年期を形作った素晴らしいクリエイターさんが、どんどんこの世から去ってしまう現実に、心が打ちひしがれる毎日です。

こうやって、文を綴りながら、
大好きな方々について少しずつ 記憶と記録に残していく作業が
私にとっての「お別れ会」なのかなと思っています。

鳥山先生、たくさんのワクワクとドキドキ、
感動とユーモアをありがとうございました。

私の青春は、鳥山明でした。

大きくなっても、私はアラレちゃんのままです。

ずっと、忘れません。

#鳥山明
#Dr.スランプ
#ドラゴンボール
#週刊少年ジャンプ
#サンドランド

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