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こころより頭が働きすぎちゃうことに悩んでいる人へ

私は2020年に大学を卒業してから4年間、
ずーっと演劇を学んでいました。

私が出逢った演出家の先生は、なんで私が出逢えたんだろう!と思うくらいの奇跡のような先生で、

"すぐ隣には大勢の人が歩いている大きい道もありますけど
絶対に言えることは、そちらには行かないでください"
"そちらは病気に繋がる道で
ほかの人を蹴落とせ、自分だけがのしあがれという道で、私たちがやっている芸術とは全く関係がない"

と、ある日の稽古中に
口にしたことがありました。

言葉は覚えてなくて正確ではないけれど、そんなことをロシア語でまっすぐに伝えてくれた先生です。

私がどんなところで何をしようが止めず、そっと見守っていてくれて、ただ自分の神経系統だけは本当に大切にしてねと、それだけを伝えてくれました(今思い出しても、泣けます泣)。

そんな方と特別な文脈で稽古をすることは、それはそれは面白くて!
演劇にめちゃめちゃ傾倒したんです。

今思うと、自分の生活はすべて演劇を学ぶためにデザインされていて
二の次になっている部分があった。

安いとは言えない月謝をはらうために、時間に融通を利かせてくれるアルバイト先を選んだり、
深夜に働くことを選んだときもあるし
交通費をやりくりするために、週に4日くらい、横須賀から中目黒まで往復4時間かけて働きに出ていたことも。
24時過ぎに帰宅して、毎日ビール飲んで、お昼は近くのセブンで麻婆麺(あの美味しいチルドのやつ!)を買うことだけが楽しみ!みたいな感じだった。

貧乏とまではいかなかった(体質的になれない部分もあった)けれど、決して豊かで幸せとは言えず、どこかずっと自分がすり減っていき、充実しているけど、今の現実が幸せなのかどうかわからない、みたいな状態が数年間ありました。

とはいえ、演劇はとにかくおもしろかったの。

そこで学んだことは演技のことじゃなくて「意識」のことであり、自然の法則や宇宙のルールであり、幸せになることだった。

今まで学校で勉強してきたことよりも(ほぼオール5&進学はぜんぶ推薦だったよ!)はるかに価値を感じた。
リハーサルでは数々の奇跡を目の当たりにし、演じながら大浄化される日や、何度かインスピレーションを得る手前まで、こころで演じるということを経験した。潜在意識の領域で生きることの大切さ、そこにアクセスするトリックに興味津々で、4年間たくさんの稽古や本番をやりまくった。

そして、そこでよく言われることは

「アタマ!!!(激励)」

だった。笑

1年目、演技のことなんて知らずに
なーんも考えずにぼーっと座っているでしょ。
目の前の人に普通に興味持って会話している感じ
(〇〇さん、なんでそんないきなりセリフっぽく言い始めるんだろう、ちょっぴり変でこわいかも…。でもおもしろい。だって、変なんだもん。あ、いまの笑った顔、すごく可愛い!とか思いながら)。

それが、自然体だからものすごく笑われたり褒められたりするのね。

それが、数年経つと
演技という型を覚えてきて
ぜんぜんキラキラした最初の頃のナオちゃんじゃない!
とか言われてしまったわけ。(ショックでしょう。。)

自分はもともと人やものに愛着をもったり、愛情を持てる人だと信じていた(大袈裟!)からこそ、
なかなかできなくて(できなくなっちゃって)苦しんだ。

うまくいくことだけを考えちゃって、自分はこころで演じているつもりでも、「ナオちゃんはまだ頭の部分が大きい」とフィードバックされることが続いたの。

今思えば、日常のストレスも恋愛のストレスも(?!)すごいし、お菓子ばくばく食べるし、画面を開いてイヤホンしてYouTube観てないと安心して眠れなかったり、左脳の部分が肥大化しすぎていて、自分のこころの存在を見失っていたように思う。

「あたまをこころに降ろす」ことの重要性をいくらあたまでは理解していても、
「本当にそれを自分自身の肉体を通してやってみる」というところに
どこか疑いや変化する恐れがあったのだと思うんだ。

で、ある日気がついた。

今のわたしは、舞台の上で生きられるようになることより
実生活を生きることの方が先決だ
って。

チェーホフ(稽古でよく演じていた台本、過去の投稿で色々書いてます)に出てくる登場人物は、みんなものすごく"生きて"いる。ただそこで生活をしてる。それがとても美しくて、演じ手や観客は浄化され、生きる活力をもらう。

それを演じる私が、本当の"生きた"生活をすることを知らない。そりゃ、天才的な台本でも、観客を包み込むような、生き生きとしたエネルギーを放射することは難しいよね。

何年も何年も、舞台上で生きたままの自分でいるためのトレーニング(あたまをこころに降ろす筋トレのようなもの)を続けて気がついたのは、
もう一度生きたくなるような体験を実人生でたくさん経験することが、舞台上で生きられるようになることよりも大切かもしれないということ。
(ちなみに、舞台上で使うのは今の人生だけの経験じゃないこともあって、今の人生の経験値とか年齢はあまり重要ではないと思う。なんか直感的に、実人生!がその時のわたしには先決だった感覚)

好きな野菜で料理したり、お気に入りの土鍋でお米を炊いたり、もう一度追体験して味わいたいと思うくらいの美味しいものを食べに行ったり、藁細工で亀をつくったり、手ぬぐいを藍染めしたり。

「舞台の上でもう一度生きる」筋肉を育てるまえに、「舞台の上でもう一度味わいたくなる」ほどの生きた生活を自分でつくることのほうが重要じゃん!なんて思って、自然と "自分だけの、生き生きとした暮らしづくり" がスタートしていったのです。
具体的には、三浦市に移住、少しずつ身の回りの暮らし改革。

(余談。思えば、ホロスコープに親しい友人と再会して、この社会がいかに権力に管理されたピラミッド構造であるか、受けてきた教育のこと、本当の歴史のこと、本当の男女の役割こと、農薬や自然栽培のことなどが耳に入るようになって、色んな本をおすすめしてもらって読むようになり、幻想の幕開けみたいなのが始まってた。自分が主体となって創っていく、愛と平和と安心に満ちた、あたたかい世界に住んでいる人たちがどうやら沢山いて、わたしもそっちに行ってみたい、と思い始めていたよ)

ちなみに、いま私が言っているような衣食住をしていない方でも、めちゃくちゃに素晴らしい方はたっっっっくさんいるの。
タバコもお酒もスーパーのお惣菜もよく食べるし職場もちょっと大変そうだったりもするけど、とてもクリーンで純粋で甘くて、熱いエネルギーを放射しまくっている素敵な俳優さんもいるしね。(私はそういう人こそが、役者の才能がある人、演劇が魂職である人だと思ってすらいる!)

ある日、拾ってきた葉っぱを使って栞を作っていた時にふと思った。
「あれ?ずっと舞台上でなりたかった姿に、いまなれてるわ」

時間も忘れて、少女のように夢中になって、この手の中でつくられるものに集中してる。あたまがこころに切り替わるような体験。なんでこんなに幸せな体験を、舞台の上でだけ求めていたんだろう?
そう気がついたときは、稲妻が落ちたような衝撃でしたよん。

そんなふうにさらりと、生活は自分の魂が喜ぶことでいっぱいにできる。

さらに、その先に多発してくる小さな奇跡。
あれよあれよと必要な人に出逢い、奇跡のような半年間の流れがあって、いまの愛おしい生活がある。

いろんな壁もあるけど、どうやって楽しく(大事!)乗り越えたか
そんなことをなるべく恥ずかしがらず話していくことが
私がお空で選んできた仕事のひとつなのかなーと、思い始めていたりいなかったりします。

こんな長文を読んでくれて
ありがとうございます!

またみんなに会いたいです😊

✴︎2024/2/5 自身のInstagramより。

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