加津ちゃんの渡鬼思い出語り



「ピン子さんって、やっぱり怖いの?」
日本人は血液型と出身地が質問トップ2だと思いますが、私の場合多分この質問が一番聞かれていると思う。
「そんなことないよ」と答えていたけど、今ならこう答えます。


「怖いに決まってる」


チャンチャチャチャチャチャチャ チャチャチャチャチャラララッチャーラーラーッチャー!

という、羽田健太郎氏のオープニングを聞いたことがない方は割と少ないのではないかと思う。そう、「渡る世間は鬼ばかり」通称渡鬼のテーマソングである。ちなみにこれ歌詞があるんですヨ。

私はこのドラマに10歳、1999年から2012年までレギュラーとして出演していました。小4から大学4年まで、実に12年。
改めまして、元子役、今は通訳などやりながら、フリーでライターをしております、宇野と申します。主に「和樂web」や「タウンワークマガジン」などで書いていますので、記事良かったら読んでください。

さて、冒頭の「怖いに決まっている」ですが、当時は実感なかったですが、今思うとメチャクチャ怖かったなと震えます。
私は自他ともに認めるスットコドッコイ人間でして、それは三十路という年齢になっても相変わらず。こけつまろびつ挙句の果てに方向を間違える、みたいなことを平気でやってしまいます。

そんな私ですが、12年間あの現場を生きた、という事実は、人生にとって大きな自信になっています。

何しろ渡鬼の現場は「ベテラン」と「プロ」しかいなかった。

森光子さん、宇津井健さん、池内淳子さん、京唄子さん、赤木春恵さん、私がご一緒させていただいた俳優さんだけでもこれだけの方がお亡くなりになっていますが、同じ現場にいたわけです。

大学で「テレビ論」っていうテレビの歴史を学ぶ授業を取っていましたが、講義を聞いていると、自分が面識ある人の名前がゴリゴリ出てくるんですね。テレビ創世記、1950年代を知っていらっしゃるベテランの方がいるのがザラでした。
私が現場に入ってすぐ、「ハイビジョン」として、テレビの枠が広がりましたが、それどころかフィルム撮影、何なら映画のアフレコ時代、映像だけ先にとってあとで声録りしていた時代の「スター」の方々がいらしたのです。

合間に食べていた石原プロのおはぎがどれだけ歴史を持っているかなど、平成元年生まれ能天気な人間は知らなかったのです。

おいっしいんですよあのおはぎ……。

子供だから相当お目こぼししてもらったと、今だから思います。はあ思い出すだけで夜眠れなくなりそう……。

ピン子さんにしても、本当に厳しい方でした。気持ちが作れてない、と叱られ、カメリハ(カメラリハーサル)で決まった立ち位置をランスルー(本番前のリハーサル)でズレた時もきつく叱られました。

でもそれは、より良いものを作る、プロの矜持です。

気持ちが作れてなければそれはカメラに映る、つまりは視聴者、お客様に映る。

ドライ(カメラ回さないリハ)、カメリハを通じて、カメラさんはカットを決め、照明さんはライトの位置を決め、大道具小道具さんはあるべき位置に道具を置いている。中には役者の顔の影にならないよう、合間に枝切りばさみで植え込みを切ることすらあります。

それを役者が何も考えず、本番でふら~っと位置をずらしたら、共演者、スタッフの皆さんに迷惑がかかるに決まっています。

な~~んにも知らないクソガキに逐一教えてくださった、共演者そしてスタッフの皆さんには今でも感謝しております。

しかし今思うと怖いところにいたものです。昔は怖いもの知らず、今はビビリまっしぐらなので。なんとなく、思い出話を書こうと思い書き始めてみたものの、コレ続けられるかしらん。笑

このご時世、自分もいついかなる時どうなるかわからないですしね……。
次は出演のきっかけあたりから書こうかなと思っています。


追伸:芸能活動に関してはもうほぼやっていませんが、昨年「幸福路のチー」という台湾のアニメ映画に吹き替え出演させていただいたり、MCやナレーションなどたまにやっております。

「チー」も故・高畑勲監督のお導きと言えば良いのか、かなり数奇なご縁だったんですが、これもまたの機会に……。笑


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