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day279 2歳児のわたしと対峙してみることにしよう。

昨日書いた記事。

この記事で書いた、2歳児のわたしと対峙しようと試みるのだけれど、どういうわけか寝てしまうのだ。
わたしの場合、こうやって記事として書くことで対峙できるような気もしているので、この場を介してやってみようと思う。

こちらは先日みた彩雲でございます

2歳児のわたし。
お兄ちゃんと遊ぶ約束だったのに、わたしを置き去りにして自転車で勢いよく走り出したのを覚えている。それを、待ってーと追いかけた。
中学生の自転車と、2歳児の足。圧倒的に差がありすぎて、あっという間に見失った。

何処をどう歩いたかは、まったく覚えていない。ただ、辿り着いた場所は何となく覚えている。
海辺育ち、そこそこ遠くの水産加工会社のおばさんに声を掛けられたのだ。ということは恐らく、国道を渡り、岸壁のそばを歩いていたのだと推測できる。今思うと、なんとも危なっかしい。しかもその間、誰からも声を掛けられなかったということか。不思議。

その時わたしは、いったい何をどう思っていたのだろう。お兄ちゃんを追いかける、という目的は最後まで持っていたのだろうか?

兄が自分のことを置き去りにしていくという哀しみ、追いかけても追いつけない絶望感、何処を歩いているのかもわからない不安。
でも何となく、泣いてはいなかった気もするのだ。

もしかしたら、こう感じていたかもしれない。わたしはお兄ちゃんにとって邪魔な存在で、いないほうがいいのかも、と。

水産加工会社のおばさんが、わたしに声を掛けてくれた。恐らく『どこから来たの?名前は?』みたいな感じだったと思う。
どういうわけか、物心ついたときから名前と住所を言えるようにと、教え込まれていたわたし。このとき、その実力を発揮したようである。
ちなみに、のちに通うことになる保育所よりも遥かに遠い距離だったと思う。いったいどれだけの時間、歩き続けたのだろう。

おばさんが警察に連絡してくれたらしく、確かそこにパトカーが来て、母も乗っていたような気もする。でも、母とのやり取りは殆ど覚えていないのだ。
パトカーの後部座席に乗り、自宅へと向かった記憶だけは確かにある。

我が子を心配しない親などいないだろうと、一応は思っている。でも何となくの記憶としては、母に怒られたような感覚があるのだ。

母は心配というものを怒りで表現するところがあるように思っている。中学時代にインフルエンザで寝込んだ時も、心配ではなく怒られた。そして熱のある状態で、病院までひとり歩いて行ったのだ。

あなたのことを心配していた。
無事で良かった。安心した。

きっと、わたしはそんな言葉を求めていたのだろうと思う。でも実際は多分『何やってるの!心配かけるんじゃない!』と怒られたのだろうと思う。おぼろげながら、そんな記憶があるから。

母は、優しい言葉を心の中に仕舞い込んで、それを誤魔化すように怒りの表現をする人だ。そういう人だと分かったのは、大人になってからのことだけれど。

だからわたしはこの日から『家族に迷惑をかけてはいけない』と思ったのだろう。というか、わたしはお兄ちゃんにもお母さんにも、みんなに迷惑をかける悪い子なのだという認識が生まれた日だったように思う。

逃げた兄が酷く怒られた、という記憶はない。だからこそ、追いかけて迷子になったわたしのほうが悪いという認識が強まったのかもしれない。
そして、住所と名前をソラで言えたことを、恐らく父親に褒められたのだろう。この家で上手くやっていくためには、頭脳明晰である必要がある。そう思ったに違いない。

自己肯定感というものは、きっとこの日から失われたと思っている。この家族の中で生きるためには、迷惑をかけないように、そして賢くあらねばならないのだと。
だからこそ周囲の空気を読むのが得意になったのだろうし、人の言葉だけでなく、表情などにも敏感になっていったのだろう。


自覚はないけれど。もしかしたらあの日、わたしは死にたいとか消えたいとか、思っていたのかもしれない。
絶望を味わうには早すぎる歳だ。

さて、あの日のわたしに逢いに行こうか。

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