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小学校の研修日にちょこっと参加してみた

こんにちは!日本には大寒波が訪れていると聞きました。実家から送られてきた写真には、京都とは思えないほどの雪が降り積もった庭の写真が…皆さん暖かくしてお過ごしでしょうか?

オランダと言えば、雪こそ降らないものの寒い日が続いています。もうそろそろこの寒さにも慣れたい頃ですが…まだ無理かな。苦笑

さて、今日の記事は2022年年末のこと。TAを務める小学校の研修日にちょこっと参加させてもらった時のことを書きたいと思います。個人的には、結構衝撃的な内容だったので、振り返りも兼ねて。笑

学校は"職員研修日"を自由に設定できる

学校現場は忙しいです。それはオランダも同じ。

それに深刻な教員不足が重なり、オランダの教育は手放しでは喜べない状況が続いていると言われていますし、個人的に見てもこれから子どもたちの学力はどうなっていくんだろう。これからどんな教育政策が行われるんだろう。と憂いも含めて気になるところもたくさんあります。

学校の教職員について言えば、どの国でも基本的に学校の教職員は子どもたちが登校してくる前に学校に着き、子どもたちが下校した後に残った仕事をする訳です。

さらに、オランダでは教職員の働き方も自由です。校長であってもパートタイマーの先生はいくらでもいます。それは他の教職員にも同じ。最近ではフルタイムの教員を探すことが難しいとまで言われている状況です。同時に、今働いているパートタイマーの教職員が全員フルタイムに戻れば、オランダの教員不足はほぼ解消されるという一説もあるそうです。

そんな中、なかなか全ての教職員が集まることの少ない学校現場で、教職員が落ち着いて顔を合わせてチームの方向性を整えたり、現状の課題解決のために時間を割ける日があります。それが、学校が(年間7日以下で)自由に設定できる「職員研修日」です。オランダ語ではこの日を"studiedag"と呼び、一般的には「(子どもたちの)自宅自習日」として認識されています。ただ、この日は歴とした研修日のため、教職員は出勤し、その時々に必要な会議を行なったり、研修を受けています。

学校の半分のクラスが登校?

学校の中の多くは、丸一日を研修日(studiedag)として設定し、児童生徒は全員休みとしますが、私がTAを務める小学校では「半分のクラスが登校する」という方法をとっていました。

そもそも、多くのオランダの小学校では水曜日は「午前中授業の日」と設定していることが多く、午後からの授業がない場合もあります。私が出勤したこの日も水曜日で、午前中授業の日でした。

学校を見渡すと、明らかに生徒の数が少なく、教室によっては空っぽです。
「今日は遠足か何か?」と聞くと、
「今日はstudiedagだから、半分の生徒しか登校していないのよ」とのこと。
「また今度あるstudiedagに、今日休んでいる生徒たちが登校するみたい。つまりAグループが登校して、Bグループは休み。次回は逆になるってことね。」

なるほど。クラスと先生たちをAグループ(1年〜4年)とBグループ(5年〜8年)に分け、今日はBグループの教職員が研修を受けるということでした。

学年による悩みが類似する点に関して話し合う日

学校研修日の日は必ずしもいつもこのようにグループ分けする訳ではないようで、今回は学年分けした方が課題にアプローチしやすいということから、このような分け方をしているとのこと。

確かに、4歳〜12歳という幅広い年齢が在籍するオランダの小学校では、学年や年齢に応じて課題は異なるでしょう。出来るだけ年齢の近い先生たちが集まり、問題や課題を共有することによって、より問題(課題)解決がしやすいかもしれません。

いずれにせよ、このようにして学校が「生きた存在」として扱われ、学校裁量で自分たちの現状に合わせたスケジューリングが行える点がとても魅力的だと感じますし、そもそも日本の学校には先生たちのいない学校で、半日ないし丸一日、会議や研修を行う日などないのではないでしょうか?

日々忙しい教職員が、学校としての方向性を整えるためには、やはり、まずは児童生徒がいない時間が必要なのではないかと思います。

後半の研修を先生たちと一緒に

いくつかの授業を終えて1階に降りると、ちょうどこれから外部の講師による研修が行われるところでした。講師の女性は椅子に腰掛け、お茶を飲みながら8名〜10名ほどの教職員と談笑していました。

「菜央も参加してみる?オランダ語だけど、良い機会かも!」

そう言って、パートナーの先生が校長の元へ。校長は、

「もちろん、良いわよ菜央。参加してみて!でも、かなり突っ込んだ内容について話すから、生徒や保護者の個人情報について他言は厳禁よ…!」

と言われて、私も先生たちの輪に入れてもらったのでした。

「難しい保護者への対応をどうするか」という内容

この日の内容は主に高学年の先生たちに向けた「対応が難しい保護者へどのように対処するか」でした。ここで言う「難しい」とは、高圧的な態度をとってきたり、学校や担任に対して、我が子を愛するあまり、学校では対応が難しいと判断できるような要求を続ける保護者などを指します。

まずは講師の自己紹介から、そして先生たちも一人ひとり簡単な自己紹介を行いました。彼女が話し始めたのはまず、人の欲求や不満はどのような順序を辿って爆発するのか…というところで、つまり人間の心理学的な部分から話は始まりました。参加している先生たちと対話しつつ、彼女は自分の専門性を繰り広げながら「人間」というものの欲求について話をしているように見えました。

教員の仕事は多岐に渡ります。子どもたちの発達はもちろんですが、成績処理や保護者対応など、教員はある意味オールラウンダーとして仕事をしなければいけない存在です。そういった意味では、保護者である大人がどのように(我が子を愛するが故に)、不安から生まれる学校への不信感を募らせていくのかを心理学的に理解しておくことも有用に見えました。

教師はニコニコ愛想よくする必要はない?

この講師の話で興味深かったのは、彼女が次に「保護者から教師はどのように見えているか」という話をしたことでした。この時、彼女は例として校門に立って生徒たちを迎える2人の教師の立ち振る舞いについて話をしました。つまり、保護者はこの2人の教師をどのように見ているか。ということです。

講師が示した2人の教師は以下の通りです;

1人目
終始ニコニコとしていて、リアクションは大きく、生徒に手を振ったりしながら「愛想良く機嫌の良い先生」に見える先生

2人目
必要以上にニコニコせず子どもたちを見送り挨拶をしながら「きちんとした先生」として振る舞っている印象を与える先生。

結論からいくと講師が言うには「教師はニコニコ愛想よく保護者に笑顔を振る舞う必要はない」ということでした(!)。

彼女曰く、「ニコニコと誰にでも好かれるような振る舞いをしている姿」というのは、実は周囲の人に対して「自信がない」という印象を与えている可能性が高いということでした。つまり、ニコニコと愛想よくしている教師の姿というのは、現代の教師という職業的ステータスから考えると、言い方を変えれば「舐められやすい」ようにうつり、「何でも言っても良い存在」だと思われやすいと言うのです。

必要以上に笑わない、でもきちんとした先生

この日のグループの中には、groep7(小学5年生)の担任をするSarah(仮名)という先生がいました。彼女はおおよそ50代くらいで、いわゆる「経験のある先生」です。Sarahは普段、必要以上にニコニコしません。いつも凛としていて、生徒との間には一定の距離を置きます。あたかも「教師と生徒は友だちではありません」というメッセージを送るかのような振る舞いをしています。

しかし、私から見ても生徒からの信頼は厚いように見えます。また、授業を見せてもらうと彼女の授業は非常に上手く構成されていて、洗練されています。それは、TAとして1日目に私が彼女の教室に入った時でさえわかりました。教室は片付いていて、整然とし「整っている」という言葉がピッタリです。そして、驚くことに彼女の担任するgroep7全ての生徒の成績が上がっていると校長から聞いています。

一方で、だからと言って学力重視でクラスがギスギスしているかと言えばそうではありません。生徒たちの人間関係は良さそうで、それぞれが節度を守り、「やる時はやる」という姿勢に切り替えるのが早いのがこのクラスの特徴だと感じます。

さて、Sarahに関して言えば、この日の講師が「困難な保護者」を演じた時も、彼女は非常に毅然とした態度で臨んでいました。決して保護者に迎合せず、真っすぐに自分の意見を伝え、保護者の無理なお願いには「それはできません、何故なら…」と凜とした態度で応えます。その姿勢は講師からも非常に評価されていました。

教師としてのプロフェッションを行使すること

オランダの小学校や中学校の教職員たちに話を聞くと、保護者が非常にdemanding、いわゆる要求高くなってきているという声をたくさん聞きます。学校で起きていることや成績について口出ししてくる保護者が増え続けるのに対して、学校現場ではそれを十分にカバーするだけの人員が足りていないという状況です。

このアンバランスはオランダだけではなく、全世界的に起きていることかもしれません。学校の外には無数の教育コンテンツがあり、子どもたちはどこでも自分たちの好きなように学ぶことが可能になりました。そうすると、保護者は心的に「学習に介入できる」という気持ちになりやすくなるのも自然なのかもしれません。

「学習の進みが悪い、不十分だ」とか「うちの子はこれだけできるのに、何故その成績になる?」など、保護者からの不満は溢れやすくなります。それもそのはず、学校に十分な人的余裕がなければ、当然のこと子どもたちを「適切に」見守ることは不可能になってきます。そしてそこに「教職志望者の減少」が拍車をかけ、教師の質が落ち、保護者の不平不満はもっと増えるのではないでしょうか。

一方で、講師の女性が話していたのは「だからと言って、教師のプロフェッションを手放すべきでない」ということだったように思います。もちろん、教師がいつも正しい訳でも、保護者がいつも間違っている訳でもありません。逆も然りです。

ただ、この不確かで多様な時代に、教師に降りかかる全ての意見を取り入れることがそもそも可能なのか?ということです。仮に、保護者の不平不満が「教育者」という観点からではなく「我が子を思うが故に」という愛情からなのであれば、そこで「教育者」ができることとは何なのでしょうか?

そして、そういった保護者からの意見や不平不満が無数に降りかかるとするならば、それは教師としてのあり方、見せ方、振る舞い方が保護者にそういった行動を促しているのではないか?彼女の言葉は「教師」という社会的ステータスを取り戻すために教師には何ができると思うか?

そういった問いに聞こえました。

とはいえ、これは1つの例である

とはいえ、全ての教職員がSarahのように振る舞うことが可能かと言えばそうではないでしょう。この日の講師が提供したのは「一つの例」であって、全ての教職員が取り入れるべきものだとは思いません。彼女は教職員に「一つの考える種」を与えたのだと思います。

個人的には、この講師の発言に納得する部分はいくつかありました。教師がいわゆる「サービス業化」してしまったのは、大きく言えば国の教育政策、小さく言えば学校側の姿勢と教師側にも原因があると思います。特に日本では「熱心な先生が良い先生」と言わんばかりに、金八先生やGTO、ごくせんなどの"教師もの"が流行し、365日24時間、自らの時間を犠牲にしてでも生徒に尽くす先生が「熱心で良い先生」と思われがちです。

私には(私も含め)多くの人たち、多くのコンテンツがその責任を担っているように見えます。

オランダの教師像はそこまでいかないにしても、我が子への愛情を「特別なもの」とみなし、学校に対して無理難題を押し付ける保護者も多いと聞きます。ただ、それを適切に処理するためには、それだけの「余裕」が学校現場に必要です。そしてそれは学校現場だけでは解決できないものであることも事実なのかもしれません。

「明日から使える」学校研修

他にも色んな話を聞きましたが、ちょこっと参加してみて感じたのは、学校研修で学び得たものは「明日から使える」と感じるものだったことでした。机上の空論でも、本の中だけに存在するような理論でもなく、「明日からやってみよう」そう思えるような話だったということです。

参加していた教職員はノートやメモを取ることもほとんどしていませんでしたが、講師と盛んに対話し議論することで意欲的に学んでいるように見えました。

自分が学校で働いていた時の研修とは全く異なっていた学校研修。ストレートな物言いをする人が多いと言われるオランダという国で、教職員が疑問や課題を講師にぶつけながら「私たちはどうやってこの学校を良い学校にしていくのか」という建設的な議論がなされているところに、この国の国民性を感じた1日でした。

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