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裸でビーチで遊ぶ子どもたちと性教育

こんにちは!寒々しい春が続いていたオランダですが、この週末はめちゃくちゃ暑かったオランダ。家の近くのビーチでも、噴水があるような公園でも、いわゆる「水がある場所」は子どもたちで賑わっていました。


"水着なし"で遊ぶ子どもたち

ビーチや水がある場所に行くと時々目にするのは、水着なしで遊んでいる子どもたちです。そんなに「たくさんいる」というというイメージではありませんが、チラホラ目にする感じ。水着も着ないで水遊び…と聞くと、小さい子どもたち、1歳とか2歳の子どもたちを想像しがちですが、こちらでは7歳〜8歳くらいの子どもたちでも平気で水着を着ていない時もあります。

「水で遊びたーい!」
「水着ないから、脱いで遊んだら?」
「わーい」
みたいな光景も何度か目にしてきました。

少し話はずれますが、この国にはヌーディストビーチもあって、大人も裸で過ごせる場所があります。私はビーチの近くに住んでいることもあって、ビーチに行くとたまに裸の人もいます(極論、ヌーディストビーチじゃなくても。笑)。でも、周囲が特別視しているような感じはあまり感じません。よく観察していると「あぁ、裸の人か〜」ってなくらいで通り過ぎる人たちの方が多い気がします。

かくいう私もこの国でサウナに行く時は「全裸」の日で構わないと思っていて、これまで何度も通ってきました。

流石の私でも、最初は恥ずかしかった「全裸サウナ」ですが、オランダに長く住む日本人の方に聞いてみると、

「この国でこういうサウナに来る人は特にね、人間の身体は2種類しかないと思っているのよね。心は別よ。でも身体は2種類。男の身体か女の身体。だから何を隠す必要があるの?って。みんな知ってるじゃんって。そういう考え方なのよね、きっと」

と。あまりにもあっけらかんとした捉え方。でも、妙に納得でした。だって、サウナ内で「エロさ」みたいなものって微塵も感じないのです。

「暑いから上の服、脱いでも良い?」

先週末、娘のクラスメイトを12名誘って、近くのスポーツ施設で誕生日会を開きました。その日は暑かったこともあって、子どもたちは汗をかきながら遊んでいたのですが、その時1人の女の子がやって来てひとこと。

「暑い〜!上の服脱いでも良い?」
「下には何か着てるの?」
「んーん、着てない。でも暑いの!」
「あなたが気にならないなら、良いんじゃない?」

そんなやりとりをしてその子はシャツをポーンと投げ捨てたのでした。笑

7歳〜8歳の子どもたちの体型はまだまだ幼児体型とも言えますが、比較的体格ががっしりしているような発達の著しい子はそれなりに男性らしい、女性らしい体型にも変化していきます。パーティーも終わって、その子のママが迎えに来た時、

「暑いから脱ぎたいって言うもんで、自分が気にならないなら良いんじゃないってシャツ脱がせちゃったけど…」という私でしたが、
「本人がそう言ったならそれで良いよ!」とあっさりした返答。

うん…どうやら何かが根本的にちがうことがわかってきた…

プールのレッスンでトップレスの女の子

さらに、先日の娘の水泳レッスンでは、トップレスでレッスンを受けている女の子を目撃。笑 さすがにそれは…!!と思いましたが、他人の私としてはその女の子の性自認までは理解が及びません。

アンダーアーマーの水着を履いて、上はトップレス…でも、誰も彼女を凝視する様子もなければ、逆に言えば違和感がある自分が申し訳なく感じるくらい、違和感がない…

パパも外から嬉しそうに手を振っていて、娘も楽しそうにレッスンを受けていました。

かと思えば、ある日のレッスンでは宗教上の理由から決して肌を露出しないような水着を着用しなければいけない女の子がやってきます。足先から髪の毛まで全員を覆う水着。それもまたその子、家族の選択なのです。

私は今、現地校で授業をしていますが、子どもたちはとにかくアクティブで、鉄棒をして、足を開いて座って、ちょっと転んで…あらゆる状況で多少下着が見えても、誰も何も気にしていないように見えます。さすがに高学年となるとその辺に恥ずかしさはあるものの、女子生徒はお腹を出すような短いTシャツを着ていることもあるし、見えるとか見えないとかあんまり気にしていないような。っていうか、誰も人の身なりのことをそこまで気にしていないのが実情。

こちらでは身体的なことを口に出すのは基本的にタブーなので、人の身体を描写する言葉をわざわざ使ったり、目や肌の色が何色だとか、あえてそれを取りあげてどうのこうのという議論をすることが憚らる雰囲気だけはありますが、それさえ守れば…という感じも。

SNS投稿への不安 VS 幼児の身体に興奮を覚えることへの違和感

さて、周囲に話を聞いてみると、子どもが水着を着ずに遊ぶことへの意見は分かれます。「最近はSNSなんかも怖いからねぇ〜」と言う人もいれば、「子どもの身体に興奮を覚えるような大人の存在に怯えてどうする」という意見も。

そもそもこの国では性教育が義務化されています。一方で、実際にしっかり性教育に力を入れている学校と、さわり程度の学校、学校に所属する子どもたちの宗教的なバックグラウンドから性教育を行うのが難しいと判断する学校など、話を聞くと状況は千差万別のようです。

でも、博物館に行けば性教育エリアにはガッツリと、非常にオープンに性にまつわる展示があるし、この国は基本的に性に対してオープンだと言えます。

あっけらかんとした「性」

サウナの話でも書いたように、この国における「エロさ」とは、私が日本文化に感じるものとは全く別のものだなと感じます。自転車大国のこの国で、女性がスカートがめくれて下着が丸見えなんてことも茶飯事のこの国では「チラッと見えること」は彼らにとって「エロいこと」ではないんだということに気がつきました。

ブラをつけずにTシャツやタンクトップを着ている女性は老若男女問わず街中にたくさんいるし、乳首が見えるとか見えないとか、それがエロいとかどうとかこうとかそんな議論とは無縁のところで社会は回っているように感じます。そんなことでいちいちリアクションしていたらキリがないくらい、世の中はそんなことばかりで溢れている印象。

そんなことをどこかでぼんやり考える日常の中で、BBC Japanがこんな動画をアップしました。

この動画を見て、強烈な吐き気がした私。同時に言葉に表せないような怒りがこみ上げてきました。女性をモノとして扱うことがこんなに「ふつうのこと」になっているのか。本当に腹立たしい。

もちろんオランダにはポルノもあるし、アムステルダムの飾り窓地区には合法で性的サービスを受けられる場所もあります。でもそれは「性的に興奮させるためのサービス」であって、そもそもぶっちゃけてしまえば、この国ではもっと根本的に「性的サービス」よりも「合意の上で、一般人同士で性行為を行っている大人」の方が多いんじゃないかと。

つまり、バーで出会って、友達の紹介で、ホームパーティーでいい感じになって、お互い合意の上で性行為を行っているような「健全な性行為の発生」が起きているからこそ、「性的サービス」を利用する人の数が限られてくるのではないかと推測するのです。

そんな話をオランダ生まれの友人と話していたら、「飾り窓はだいたい観光客のためのものでしょう」と。「自分の国にそれがないから、ちょっと覗いてみたい、みたいな?もちろんオランダ人も利用しているとは思うけど、そもそも興奮的な性行為よりも、自然的な流れで行われる性行為の価値を理解している人の方が多いんじゃない?じゃないと、オランダにあんな場所があったら、もっとたくさんのオランダ人がみんなあそこに行くよ。笑」と。

確かにそうかも。もちろんこれは友人談なので、何か数字で表わされたものではありませんが、性的サービスってやっぱり実生活で消化できないものを抱えている人たちが利用するものなのかな、と思うのです。

小児愛者という存在とストレス社会

話を子どもたちに戻すと、やっぱり"小児愛者"という言葉の認識はオランダにもあるようです。NPO kennisには「小児性愛」と「小児性的虐待」とは違うという風に書かれています。つまり、小児性愛を持つことは罰せられることではないが、その気持ちを抑えられず行為に及ぶことは法的に罰せられる対象になり、決して許されることではない、ということ。

しかし、ベースにあるのは小児性愛を持った人が小児性的虐待に及ぶには理由がある、ということかもしれません。それは「自分の趣向への悩み」が発端だというのです。だとすれば、そのような人たちの「悩み」に寄り添えるようにすれば、それが実際の犯罪を行ってしまう抑止力になるのではないのか?というのがオランダの考え方。

1960年代から性についてオープンに話せるような動きがあったオランダで、そのような悩みを抱えた人たちを、いわゆる「救いようのない変な人たち」で終わらせるのではなく、彼らが自分たちの悩みを共有する場を設けることで、その悩みを社会全体に発散させることで事態を軽減していこうとしたのだとか。

もちろんそんな努力があったとしても、悲しい事件が全くない訳ではないオランダ。でも、彼らから何か学べることがあるとすれば、この不健康といえる日本やアジア文化にある「日常で起きることが許された性的興奮の処理」に対して根本的な治療を行うことで、つまりそのような興奮を日常の中で処理してしまう人たちの背景にある理由に目をつけてそこを解消できれば、もっと健康的な「性」の捉え方ができる社会になっていくのではないか、そんな風に思います。

そこにある大きな要因はやっぱり「ストレス」なんじゃないかな。と。だとしたら、やっぱりストレスを抱え込まない人々を生み出したいし、ストレス社会からの脱却を根ざした教育が求められるのではないかと。この事件も私にそんな風に考えるきっかけをくれました。

このようにSNSで個人が特定されてしまうことに対しては(ご家族のプライバシーが晒されるという観点からも)必ずしもいいことだとは思いません。

でもやっぱり、日本の一部の教育文化にある「成功しなければいけない」というプレッシャーと、その人のその後の人生、働き方、そして、歪んだ性の捉え方…全ては円のように繋がっているように見えてしまうのでした。



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