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異国で英語を教えて、日本の英語教員養成課程を考える

こんにちは!すっかり春らしくなってきました。少々花粉症気味の私ですが、日本にいる時よりはマシです。最近気づいたのは、実は「花粉」に反応しているのではないか…?!ということ。

花屋で買ってきた花が家の中で綺麗に咲けば咲くほどくしゃみが出るのです…なんとも悲しい。笑

さて、TA(teaching assistant)を務めている現地小学校の英語の授業ですが、最近は1人で授業をすることも多くなってきました。それが、絶叫するほど大変ではないにせよ、結構大変です。笑

異国の地で、"英語を英語で教える"ということ、しかも私は日本でも小学生に授業をしたことがないので、"小学生"という生き物(笑)への知識や経験が足りません。これまで高校で工業高校生や一般的な公立高校で教えてきた中で得たものを総動員させてもまだ足りない…!英語教員だった私が、英語で英語を教えることに苦労するということから、日本の英語教員養成について考えます。


高校の英語教師のレベルはすごく高い

まず、私の知人にはオランダ人の英語の先生がいます。彼はオランダの中高一貫校で中学生〜高校生(HAVO/VWO)に英語(英文学も含む)を教えています。

私はこれまで何度か彼の英語の授業を見せてもらいに行きました。中学生〜高校生の学生に英語を教える彼の姿を見て感じたのは「とにかく先生のレベルが高い」ということでした。そりゃもちろん、オランダ語と英語の言語距離は近く、オランダ人にとっての英語は、私たち日本人にとっての英語とは全く異なります。

一方で、彼の問いや課題の出し方はこちらが「なるほど〜」と思うようなものだったりするため、その意図を聞くと新しい学習理論に基づいて課題を作成しているのです。そして、高校生に求める英語のレベルはとても高いと感じます。

正直、彼の授業を見た時、

「私は日本なら通用するかもしれないけど、この国で高校の英語教諭だったなんて言ったら恥ずかしいレベルだな」

と思いました。

日本の教職課程のレベルは(たぶん)低すぎる

仮にそうだとしたら、それは私個人が勉強をしてこなかったというところに起因するのだろうか…そう思うと、それは違う気もするのです。

高校生への授業で「ライ麦畑でつかまえて」を読むという課題があったのですが、その本は、私にとってみれば大学の授業で読んでいたものでした。他にも彼の授業では中学生にジョージ・オーウェルの作品を読むことを求めています。それもまた、私が大学生の時に読んでいたものです。そんな話をすると、

「菜央、こんな(簡単な)作品を大学で読むなんて、君は一体大学で何を学んだんだい…?」

と言われたのでした。恥ずかしくも、私は外大卒です。彼にしてみたら「英語を専門としてそのレベル?」なのです。その時、「あぁ、日本の英語教育の問題点はこういうところにあるのか」と気付かされました。そして彼は言いました。

「それは個人の責任ではないと思うよ。日本という国が教員を育てることに、未来をつくる職業に対して真摯に向き合っていないということだろう」と。

長期留学をした英語の先生と、そうでない英語の先生の差

私は高校を中退して大学に合格した訳ですが、それでも私が人生で1番勉強に苦しんだのはアメリカに1年留学していた頃でした。つまり、大学受験ではないのです。そして、私が今英語でコミュニケーションを取ること(とりわけスピーキング)に問題を感じないのは、この1年間の留学のおかげであって、決して(私が通っていた)大学の授業のお陰ではないということは明言できます。それはもちろん、私が留学以外の時期に自ら外国人留学生と積極的に関わったり、日本国内にいながら(外大生として)英語ばかりの生活に身を置かなかったから…という見方もできるでしょう。

しかし、問題は「英語の先生になる人」に対してその資質と能力が十分に育てられる環境が、その生徒の(既存の授業以外での)モチベーションと家庭の経済状況に依存しているということだと思います。

英語の先生を目指す人が、大学が提供する授業で十分にその能力と資質が育てられない仕組みの中にいることで、専門性の高い教員が育たない…とりわけ英語教員に関しては、スピーキングができないことは致命的とも言えますが、それは「(既存の授業以外の)個人の努力」や「家庭の経済力」だけに頼るべきところではないと思います。

私は"たまたま"留学をさせてもらえるような経済状況の家に育ち、そこで英語の力を身につけることができましたが、そうでない人はスピーキング力のついていない状態で英語教員になるしかないのでしょうか?

"英語を話す国"で英語教員が通用しない

オランダの一般的な学校における学習言語はオランダ語です。ただ、英語は小学校から必須科目になっており、それは中高でも続きます。つまり、オランダの学生にとって英語は第二言語です。

前述した通り、オランダ語と英語は共通点も多く、私たち日本語話者が英語を学ぶのとは勝手が違いますが、それを踏まえた上で"第二言語"として英語を見たときに、私のような「英語教員が英語で教える立場として通用しない」という状況を見ると、いかに「日本が専門性の高い教師を育てること」に注力していないかということがよくわかります。

私は今のところ小学生(小2〜小6)に英語を英語で教えていますが、生徒の家庭が英語話者のいる家庭の場合、彼ら/彼女の方が英語を流暢に話すことはよくあります。概ね普通に授業をしている私でも、小6の授業となると彼らから提示される英単語が難しいこともあり、「うーんどういう意味かな、調べよう」なんてこともあります。別にそれはそれで良いのですが、「果たして日本の英語教員はこの国で通用するのか?」という疑問が浮かぶのです。

責められるべきは"個人だけ"ではない

そして、仮にそうでないとしたら、責められるべきは個人ではないと私は思います。もちろん、専門教科について日々磨きをかけ、学び続けることは「教員」という立場の人にとって明らかに必要な資質ですが、その土台は教員養成課程終了時に修了していなければいけないものです。

そして、時代の変化に合わせて(研修などを通して)一部をアップデートする仕組みが、「学び続ける教員」を育て、「柔軟に変化し続ける組織」を作りだすのだと思うのです。

だとすれば、日本の教員養成はあまりにも「何もない状態」で学生を現場に送り続けていると思います。そして、その齟齬のようなものに強い違和感を感じた人たちや限界を感じた人たちが、残念ながら教職を辞していくのではないでしょうか。

異国の地で英語を英語で教えることは私にとって非常にチャレンジングなことであり、さらにその状況を厳しくしているのは、私のオランダ語が彼らと十分に意思疎通できるほど発達していないところにあります。私自身の課題としては、オランダ語を発達させることで英語を理解するためのサポートができるようになり、さらにそこから英語を英語で学ぶという生徒の姿勢を強固にしていくことです。そのためには、英語が第一言語ではない(ほとんどの)生徒たちとどのような関係づくりをするのか、また英語を英語で学ぶとはどういうことなのかということをもう一度学び直すところにあります。

自分の課題に向き合う時、日本における英語教員養成がいかに甘いもの(だった)かを思い知らされます。そして、この枠が越えられないことで、他教科(理科や社会など)を英語で学ぶという横断型学習にも影響を及ぼすということを感じます。異国の地で英語を教えることで、日本の教員養成課程や英語学習の壁はまだまだ厚いなというのを感じています。


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