"anti-bullying week"(いじめ防止週間)で子どもたちが学んでいること
こんにちは!私が勤務する小学校では"anti-bullying week"が始まりました。この「いじめ防止週間」にフォーカスするかどうかは学校によります。日本でもオランダでも、それぞれの学校で抱えている問題や課題は異なります。
大切なのは「私たちの学校の子どもたちに今何が必要なのか」ということ。同じチームの教職員に共通理解があれば、同じ方向に向かって一緒に歩いていけるものです。
私の勤務する学校は、毎年この「いじめ防止週間」のアクティビティに取り組むようにしているようです。一方で、娘の通う現地の小学校からそのような連絡はありません(他にフォーカスしたいことがあるのかも?)。
記事の最後には、日本の教室でも使えるような教材を添付しています。ご興味があれば参考にどうぞ!
G7(小5)のクラスにあった掲示物
さて、G7(小5)の教室に入ってみると、こんな掲示物がありました。
ここには何が書かれているのでしょうか?少し訳してみます。
・いじめる人
・いじめに乗っかる人、助長する人
・フォロワー
・いじめられる人
・(いじめに)立ち向かう人
・外から傍観する人
「いじめ」という1つの事象を中心とした時、周囲にはこれだけの「関係者」と呼べる人がいるのだということの理解を促します。それから、各々の特徴がその「人」の周囲に貼られていく途中のようです。
<いじめる人>
・高圧的、支配的、攻撃的、自分の考えに固執している
・別の誰かを酷く傷つける人、その行為を続ける
・失礼で、人が傷つく言葉を使う
・いじめが始まった時、傷つけるようなツールを使う
・決めつけ、強調、自信がない、拒絶されるのが怖い
<いじめに乗っかる人、助長する人>
・いじめを見て笑ったり、盛り上げるのに周囲を巻き込もうとする
・実際にいじめ行為には積極的に加担しないが、盛り上げようとする
・いじめが起きているのを見ながら、そこにいる
<フォロワー>
・支配的、無礼、とりわけいじめが起きている時に強気
・いじめが加速することを容認している
・次に自分が標的にされるのが怖いので、強い態度に出られない
<いじめられる人>
・不安を抱えている、安心できない、強く立ち向かうことが難しい
・沈黙、静か、一方ですぐに怒ったりすることもある
・自分のボーダーラインや限界を示さない
・共感性が乏しい、他の人と遊んだり、協働するのが苦手なことも
・不安を感じているので、弱々しく見える
<いじめに立ち向かう人>
・他者と協働的に行動できる、他者への共感性がある
・自分の意見を伝えるためにあえて声を上げる
・立ち上がる、人の目を見て話す、自信がある
・いじめに対して立ち上がる
<外から傍観する人>
・その状況に対して共感性を持たない
・自分の意見をすぐに表現できない
・いじめが起きていても止めることをしない
・いじめだとわかっても何と言って良いかがわからない
・状況を前にどんな振る舞いをしていいのかがわからない
「各々」に見える複雑な感情や状況
こうやって「いじめ」という状況の周囲にいる人たちを噛み砕いていくと、実は各々にも「複雑な感情や状況」があるということがわかります。
例えば「いじめる人」を1つとっても、「悪人」と決めつけて良いのか?ということです。その人の心の中には「拒絶されるのが怖い」というような弱さや恐怖心もあるということが理解できます。だからといっていじめが許される訳ではありませんが、悪人と決めつける前に共感性を持つこともこのアクティビティの狙いです。
「いじめを見つけたらすぐに止めるべきなんだ!」
と言われれば、(もちろん)その方が良いことはわかっているのですが、実際にその状況となれば言えないこともある…ということが「あるんだよ」ということを知っておくのがこのワークの目的でもあります。最初から正論を突きつけるのではなく、その途中で共感性を育てることもまた大切なのです。
一方で「いじめ」に直接的に関わっている人たちだけに問題があるかというと、意外と「その周囲で見ている人」にも色んなタイプがあって、その人たちの内側にあるモヤモヤはわかるにせよ、「それもなかなか罪深いな…」ということも見えてきます。そして、各々の中にある複雑な葛藤のようなものも。
また、仮に「自分がいじめられた」と感ることがあった場合、このアクティビティがはたと立ち止まる機会をくれることがあるかもしれません。例えば、「自分のボーダーラインを示さない」というのは、相手に誤解を与える可能性がある要素です。「嫌なことは"嫌だ"という」ということも、自分を守るためには必要な手段であるということを学びます。「すぐ怒ったりすることもある」という特徴が書かれていますが、いじめられる側に共感性が欠けていることによっていじめにつながってしまうこともあるかもしれません。
「100%○○が悪い」ということってあるのかな?
という問いを子どもたちに与えること。世の中には白か黒かで割り切れることがあるのかな?正論をかざせば全て解決できるのかな?
このように子どもたちに「揺さぶり」をかけると子どもたちは考え始めます。
意見、議論、正直な気持ちを話す
このように「いじめの周囲にいる人」を考えてみると、私たちは自分自身の中で「リフレクション」を始めます。
「いじめは悪い!いじめる人は悪い!」
そう言うこと自体は簡単ですが、それだけで問題が解決しないことも徐々にわかってくるものです。子どもたちの中には、
「いじめは悪いと思っていても、自分は実際にその場面でなかなか言い出せないかも」とか、
「それでも、私はやっぱりちゃんと止めた方が良いと思う」とか、
「自分で止められないと思ったら助けを求めたら良いんじゃない?」とか、
それぞれに本音があるけれど、助けが必要であれば誰かを頼ることもできるかもしれないし、何か他の方法があるかもしれないし…でも、実際には「自分で助けたい」って気持ちもあるんだ。なんてことも話せるかもしれません。そういう時、私たちはその気持ちにどう寄り添えるクラスなのでしょうか?
自分たちのクラス、組織で考えてみたら?
また、実際のいじめの状況を自分たちのクラスや組織に当てはめて考えてみた時、<フォロワー>になったり<傍観者>になったりした時の気持ちはどうでしょうか?自分にとって大切な友人や仲のいい友達がいじめられているとして、自分はそこで何ができるのか?
身近な存在たちの中で仮に関係性ができていたら、目の前のクラスメイトを想像してさらに思考が深まり、全体的な学びが深まります。
でも実はそれは、一朝一夕で出来上がるものではないからこそ、そこまでに至る毎日がとても重要になってくるのです。
このアクティビティが「きれいごと」になる時
もし、こういった話し合いの中で「友だちがいじめられていてもどうでもいい」という雰囲気があったとしたら、それは今に始まったことではないのでしょう。
そのクラスではこのアクティビティをするほど関係性が成熟していないとも言えます。クラス全体としての共感性が高まるところにまで至っていない状態であるということです。そういった場合に、このアクティビティをしても、途端に「きれいごとのかたまり」に見えてしまいます。
そこで無理やりにでもこのアクティビティをしてみたらどうでしょうか?
「やりたくないけどやらされた」「適当に良い感じに合わせておけば良い」というような感情を子どもたちが抱き始めます。とても表面的な、ある意味「ただの時間の無駄」としかいいような時間が過ぎていくだけです。
「ただの時間の無駄」だけならまだしも、そこに「きれいごと」が重なると、それは子どもたちにとって「きれいごとを重ねるだけの経験」になってしまいます。そういったことがないように毎日の教育活動を行うことがとても重要であるということも見えてくるのでした。
いじめ防止のためのアクティビティ
以前に書いた記事に、いじめ防止のためのアクティビティの内容(日本語翻訳したもの)を添付しています。必要とされる方に届けられると幸いです!
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