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主人の文章を読んで



私は夫と10年と少し、一緒にいる。

出会った頃、彼が書いた文章を読んで、興味を持った。
そこに、仕事でコンペに負けても負けても挑む、心の強さを感じたからだと記憶している。

その後、付き合いがスタートし、結婚をし、三人家族になった。
彼の本を読んだり、彼から話をきき、これまでの人生のことを知った。

母親と父親が別れる家庭は、彼の家に限ったことではないし、
珍しいことではないと思うけど、

やはり、6歳から母の存在が無いということは、
:母というのは全てを受け入れて愛してくれるもので、父というのはなにか「できた」ことに対して褒めてくれる特性をもっているから:甘えられない環境というのが、人の3倍くらい長かったんだと思った。

主人とのやりとりの中で、今年は大きな夫婦間の波もあり、
深く家族というものに考えを巡らせる1年間だったのだが、
2023年12月3日に、主人のお母さんが天国に行った。

いろいろな準備の手伝いをし、物事を進め終えたものの、そこからしばらくの間、夜に私の目から涙がこぼれた。


私は時々、人の気持ちが乗り移るというか、誰かの気持ちを想定以上に想像してしまうことがあり、幼少期の主人の気持ちになってしまったのだ。


主人が6歳の時、お母さんがいなくなってしまった日から、寂しさを我慢して、明日は帰ってくるんじゃないかなと思い、でもまた帰ってこなくて、きっと明日は帰ってくるかな、やはりまた帰ってこなくて、そういうのを繰り返していたんじゃないかな、、、と。

そうして毎日を過ごすうちに、いつか帰ってくるだろうという思いを手放し、諦めるようになっていったんだと思う。
毎日いてくれたお母さんがある日突然、いなくなって、最初はびっくりして受け入れられない。
いずれそれが現実に変わり、寂しさを知り、でも寂しさを認めると耐えきれないから答えを出さないでおこうとした6歳の小さな子。


今現在の、大人になった主人には、その6歳の頃の自分を引っ張り出してあげて、よくがんばったね、と褒めてあげてほしいなと思う。

彼の文章を読むと、お母さんだけが悪者のようで、他はheroのようにも見えてしまう。
でも私が「母」というものになって思うところだけど、「夫」と「何か」なければ子を置いて出ていくなんてしないと思う、ということも一つの視点として伝えた。

歯に絹着せずにいうのなら、もしも母親に別で恋人ができたのだとしても、恋人を作る前に、自分の夫を愛していたら作る気にもならないはずだと。
一見すると、母親は自分を優先して、子や夫を後回しにしているようだ。
だけれど母親は、苦しくてもがいてもがいて、その決断をしたんじゃないかっていうこと。

時に人は、変わる。
優しそうな人が狂気的になることもある。
暴力的になることもある。
フィジカルな場合と、言葉での暴力といずれにせよ。

そして、決断というのは、自分の強さだと思ったことが実は弱さだったことに気がつくこともある。

「忍耐」というのは「強さ」の行為のようだけれども、「変化への怯え」とも取れるし、
「決断して変化を選び取る行為」も、「いた場所から逃げる行為」とも取れるんだ。

だから、いなくなってくれてありがとうではなくて、
お母さんが離れた直後も年を重ねてからも、苦しんだんじゃないかと言うことも含めて、理解はできないとしても、受け止めていること。
恨んでいないこと、憎んでいないことを祈ってあげて欲しいなと、思うのでした。

きっと家族に対するそのカルマは、主人の代で決着をつける。

「好きなものもいつか消えてなくなる」、という心の深いところにあった諦めに似た感情の存在も、その存在を認めることで開ける何かがあると思う。


私は主人を愛しているし、彼が彼の持つ全てのスペックを失ったとしても、
塩むすびで十分、楽しめると思う。


不器用だったお父さん、お母さん、それでもいい。
産んでくれてありがとう。

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