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父の夢は紙ピアノに託して

今日は父の日。感謝を込めてお線香を上げた。
スケッチは中学の私が父を昭和27年1952頃に描いたもの。
今も父に聞きたいことがある。
     *
駅の構内に置かれたピアノを見ると足を止めてしまう。
私は小学生の時にピアノを習っていた。
太平洋戦争が終わった頃のことである。

東京の目黒で父と母、私8歳弟2歳妹1歳で暮らしていたが、20年5月の空襲で家は消失。湯河原に疎開して終戦を迎えて10月に東京に戻った。

港区にあった父の機械工具店の事務所は商店街の都電通り
でそこに住むことになった。階下は店舗、二階は二部屋。

父から「また目黒に引っ越す。ピアノを買うから」
と言われて私はピアノを習いに行くことになった。家にピアノはないので紙ピアノで練習する。

紙ピアノとは、🎹鍵盤が実物大に紙に書いてある。それを広げて譜面を見て指使いを覚え、ピアノの先生のところで本物のピアノを弾く。

そうやってバイエルなどの教則本を仕上げていった。 
が結局は、再び目黒に越すことも、ビアノを買うこともなく、習うのはやめた。 

なぜ、ピアノがないのに私に
習わせたのか、ずっと疑問だった。
それから何10年も経ってやっと父のことがわかった。

父は十代から住み込みで工具店で働き、独立して工場を持った。母も地方から東京に奉公に出てきた。
父と共に力を合わせて家を持つまでになった。
だが戦災でいっさいを失ってしまった。 
父も母もまだ40歳前、もう一つ頑張ろうとした。それがまた目黒に家を持ち、そこにピアノを置くことだった。

その証拠になることか、私が中学のときの日記にあった。

ある雨の日、母が
「こんな日、応接室があったらゆっくりできるのに」
と言うと、父が
「今にそうしてやるさ」
と言った。

と日記に書いてあったのだ。

父、そして母にも応接室のある家にピアノを置く暮らしは夢だった。

しかし戦後の暮らしの立て直しは容易ではない。子供は小さく、母が腹膜炎で入院した。当時の父の苦境を思う。

しかし父はもうひと頑張りするつもりで、夢の実現の前ぶれとして、私にピアノを習わせたのだろう。
紙ピアノに父は夢を託していたのだ。

父は晩年、郊外に家を建て、趣味のカメラや時計、パイプを楽しんだ74歳の生涯を
自分で選んだ墓地で、高尾を見下ろして眠っている。
母も96歳て同じ所に永眠している。

駅ピアノが響いた。誰かが弾き始めたのだろう。
梅雨の前にお墓詣りに行ってこよう。ピアノの音を背に駅を出た。





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