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ラベルを貼る瞬間〜同調と共鳴

こんにちは。今日もお元気でお過ごしでしょうか。

私達は、日常生活で頻繁にラベルを貼って、物や人、事柄をカテゴリーに入れる行為を行なっていますが、「ラベルを貼った」瞬間に、多大な可能性に自分を閉ざしてしまうことには、なかなか気づかないのではないでしょうか。

例えば、共に時間を過ごす人に、「気の合う」人を選ぶ人は多いと思いますが、その時にラベル貼りをしていないか。

  「自分は引っ込み思案だから、声が大きくてうるさい人は苦手。避けて通りたい。」

「彼女は保守的すぎて、自由人の自分は、到底友達になれない。」  

「声が大きくてうるさい」「保守的」という既存のカテゴリーのラベルをつけると、自分の価値観を守ることができて、安心はするのですが、その人や事がラベルの元に集約されてしまうため、一人一人の人、一つ一つの物事の詳細や奥をよくみることができなくなります。ラベルというフラットな表面だけを見て、自分で考えることをしなくなります。そして、人を決まったカテゴリーに振り分けるように、自分自身の様々な行動もカテゴリーやラベルで評価・判断し始めます。

私の友達で、人の体験を自分の体験のラベルの中に入れてしまう人がいます。「私はこれこれこういう体験をしてね」と言うと、必ず「あ、それはね、あなたは、私のこの体験と同じことをやっているのよ。」と言うのです。これ、共感とは違いますね。 彼女の体験と私の体験は、表面的には似ているかもしれませんが、奥深く入って行くと、全く違う出来事なんです。でも、「自分と同じ」と言うラベルを貼ることで、安心する。ちなみに彼女は、「みんな違ってみんな良い」を謳(うた)っている方です。  

たしかに、カテゴリーやラベルは、「同じもの」と「違うもの」を区分けするには、とても便利です。 同じと思われるものを同じラベルの中に入れる。違うと思われるものをそこから取り除いて、別のラベルの中に入れる。同じ種類と違う種類が、交わらないようにする。

これ、ゴミの仕分けとか、ジャガイモの選別とかだったら必要かもしれないんですが、人間や物事を選別して、均一化し、線引きして区分けしてしまうとどうなるでしょうか?個性やオリジナリティがなくなり、創造性が奪われます。自由やオプション、柔軟性や多様性が失われ、孤立化や対立が生まれます。ラベルを貼った瞬間、私達は「同じ」ものだけで周りを囲み、広く深く体験する自由を失ってしまうのです。 

自然の中では同じ種類のものばかりは、ありえません。そこには、様々な生物、植物、菌などが共存してエコロジーが成り立っており、それは、私たちの体内エコロジーも同じです。雑多なものが入り混じった状態が普通、自然です。

好きな人、ポジティブな出来事ばかりで自分の周りを囲もうとすると、反対する人もいないし、同じトーンを保てるので、確かに安心します。でも、都合の悪いものを取り除いた、コントロールされた環境にばかりいると、「反対する人」や「異質のもの」に触れることができ図、許容範囲がどんどん狭くなっていきます。

少し話がそれますが、私がアメリカの大学で教えていた時、フルタイムの人材を選ぶインタビューに参加したことがありました。驚いたのは、そこで、選ばれる要素で一番大事なのが、今いる先生方とどれだけウマが合うかなんです。その人がいくら素晴らしくても、どんなに才能があっても、すでにそこで教えている教員ただ一人とでも合わなければ、雇われる可能性は低くなります。雇われると、”welcome to our family!” (私たち一族の一員にあなたをお迎えできて嬉しいです。」と言われるほどです。「同調」ということが非常に尊重され、教員全員だけでなくどれだけ、学校方針と合わせられるかということが、一番大切な要素とされるのです。「同調」には、外にあるものと、同じトーンになるように自分を合わせるという意味合いがあります。そこには、一つの決められたトーンしかありません。自分がどんなトーンでも、それに合わせるだけです。これと似た言葉で、「共鳴」がありますが、二つは全く違います。

 「共鳴」は、「共に鳴らす」こと。人と自分の間に起こることを、一緒に感じ合うことです。自分とは全く違った考え方の人でも、意見を聞き、尊重する。相手の鳴らした楽器に自分の楽器が鳴り、共に響き合い、その体験を共有することです。お互いが自分を閉ざさずに開いていなければ、共鳴は起こりません。

 共鳴は他人に触れて、自分を震わせる。自分の中を通す。(自分が基軸)

 同調は、既存の考えに、同意する。(外が基軸)

 ラベルを貼る行為は、安心できる同調は生み出すかもしれませんが、新たな可能性を孕んだ共鳴を阻止してしまうかもしれないのです。

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