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いちごみるく(10)

 クラブの中は音の波で一杯で空気は響いてくる低音に沈み、フロアに貼りつけられた体を照らす光の束がまばたきする間に這いめぐり、音の鳴り続けるのを聴き届けると、わたしは体じゅうにあやつり糸を繋がれたように、手足の自由がきかなくなり、体が揺れて、かつて習ったことのないメタファーが始まった。踊りはわたし自身の隠喩だ。頭が勝手に動きだし、肢体の先にしびれが走り、何度も繰り返すフレーズに時間を止められた瞬間、わたしはこの空間にピンアップされる。

 DJブースの方向を向いて踊る人の群れは生気をらせん状に発散し、眺める人をその渦に巻き込もうとする。フロアにいる人同士の関係は不安定で、DJの流す音楽ひとつで結ばれた集団のように見えて、実はばらばらで、自分勝手で、本能をむきだしにして隠そうとはしない。音楽が響くだけでそうなってしまうことに、わたしは賛成だ。自意識のない時間から生まれた濃密な微風に頬を撫でられて、いつのまにかわたしは、うしろから誰かの腰に手をかけていた。

 その腰はまだ形を現していない。腰を包むTシャツとジーンズをいっぺんに剥ぎ取ってしまいたい衝動に駆られ、それができない歯がゆさに興奮した。手をかけられたことに気づいて、ゆっくり、それでも踊るテンポは崩さずに、振り向いた顔はわたしを半開きの目で見下ろした。これ、この人、あれ?わたしは以前どこかのクラブで彼を見たことがある。初めて会った気がしない。わたしは彼の目を、とろんとした視線でつつんだ。彼は表情のない顔をして、口もとにはかすかに愛想らしきものをたたえて、「疲れたの?」と言った。
 

 目を覚ましたら昼の二時を過ぎたところだった。日曜に掃除をするのがいつものわたしだが、今日は雨降りなのでふとんも干せない。第一やる気がない。コーヒーをいれてはみたけど、冷蔵庫にはすぐ食べられるものは何もなかったから、近所のパン屋に出かけることにした。下着はせずに長袖Tシャツをかぶると、昨日の夜の出来事をだんだん思い出してきた。

 昨日は友達と二人で麻布十番のクラブに行ったけど、友達は途中で疲れてソファーで居眠りを始めた、クラブに入る前からしこたま飲んでしまったせいだ、わたしは友達に一声かけてフロアに踊りに行った、携帯をチェックしたらメールの着信があって、見ると二ヶ月前に別れたと思っていた彼からだった、内容は読んだらすぐ削除したくらいだからもう思い出したくもないようなものだった、でも本当は覚えてるけど、「今度の週末ヒマ?元気かな、と思って」だって、寒いよ、それからひたすらDJブース見つめながら踊りまくって、うんやっぱりこのDJ、ルックスいいなぁ、かける音も好きだけど、なんて思ってたらそばにいた客にぶつかってしまった、彼はわたしに「疲れたの?」ときいてきて、ドリンクチケット余ってるから一杯おごると言い出して、黙って飲むのもアレだし、ちょっと話をして、やっぱり携帯の番号教えちゃったんだなぁ。今日は友達と来てると言ったら、じゃあこんど電話する、とか言ってたけど、なんでああいうとき嘘の番号言えないんだろ、たった一桁変えればすむことなのに、ああわたしってお人好し、そこまで思索にふけるとパン屋に到着した。傘をたたむのが鬱陶しい。

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