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新宿L/R ~フェイクの中で(5)

 しのぶはカウンターへ向かった。和雪はあいかわらず客の酒を出し続けている。もれ聞こえてくるフロアの音に何となくあわせて体を揺らしながら。和雪の長い髪の後れ毛が顔の横でふらふら揺れているのが見える。
 「踊りにいかないの?」しのぶは和雪の手が休まったタイミングで小さい声で話しかけた。声が小さくても、タイミングと正確な言葉を選べば、それは確実に相手に伝わる。和雪はすこし驚いた顔をしのぶに向け、目を伏せて肩を縮こませた。行きたいのはやまやまだという意志表示だ。しのぶは何かスペシャルなのがもしあれば、と言って一杯注文し、和雪は指さし点検で酒瓶を選びながら考えたあと、赤い液体をシェイカーに注いで何か作り始めた。
 

 「何かスペシャルなもの。特別ね。6月23日っていう名前のカクテル」
ありがとう、しのぶは礼を言ってグラスを受け取り、一口飲んでのどの奥から息を吐いた。強い酒を飲んだときに出る息だ。強いね、これと和雪に伝えると、和雪は鼻で笑って照れた。酔わせたいわけじゃないんだ、弁解のような、キザで神経にさわる言葉にしのぶもつられて笑ったが、ふふふ、という妙な響きの自分の笑い声を聞いて自分でも涙が出そうなほど恥ずかしくなった。照れ隠しに彼女元気?と和雪に聞いてみた。和雪はグラスを洗う手を休めずに、元気だよ、と答えてグラスを食洗機にてきぱきと並べている。踊りに来ないの。いいや、最近は来ないねえ、仕事が忙しいみたいなんだ。
 「今日ウタイだからさ、メール入れたんだけど返事がなくて。来るんだか何だか」
 「そうなんだ。これから来るのかも」
 

 しのぶはカウンターに両ひじをつき、赤いカクテルをグラスの半分まで飲んで氷をひとつ指で拾い、首の周りから開いた胸に滑らせた。和雪は暑いの?と聞いてきて、視線がしのぶの胸を大きく旋廻した。ううん、大丈夫、しのぶはそう答えて和雪におしぼりを頼んだ。和雪はパッケージを開けてくれて、背中拭いてあげようか?と聞いてきた。しのぶは座った椅子を回転させ、髪の毛を上げて背中を開いた。少し背筋を伸ばしてみせた。夏にさしかかる時期でもおしぼりは熱く保たれており、拭いてもらうと余計に蒸し暑さが増してしまうが、ゆっくりと反復して進む手の動きに、ぞくん、と震えが起きた。
 「痛かった?」
 和雪はとても優しい。大丈夫、ありがとう、ゆっくりと振り向いて和雪の手を握り、どくろの指輪に口をつけて礼をした。それから残っているカクテルをひとくち飲んで、全部飲めなくてごめんと言ってグラスを返した。和雪はオーケーと言って軽やかに手の平でグラスを受けた。
 「和雪くんてさあ」
 ん?鼻で返事をしながらグラスを手早く水に浸す和雪の手は細くて作り物のようだ。手だけが体から離れた独立した生き物のようにしなやかに動く。
 「彼女のこと、好きなの?」
 しのぶは割れた左中指の爪の先を親指で何度も撫でながら、和雪の顔をまっすぐに見た。

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