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【Opera/Cinema】METライブビューイング『西部の娘』

 『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』ときら星のごとく名作が並ぶプッチーニのオペラの中では、上演機会も少なく評価もあまり高くない作品。その理由は、覚えやすいアリアがないこと、「オペラで西部劇」というのがいささか安っぽくみられがちなこと、などがあげられるかもしれない。実際、やたらみんなが「ハロー、ハロー」と連呼する、やたらみんながウィスキーを飲む、やたらみんなが銃をぶっ放そうとする、といったあたりは「ぼくのかんがえたさいきょうの西部劇」という趣がしないでもない。

 この作品は1907年にMETの招きでニューヨークを訪れたプッチーニに、METが新作を委嘱して生まれたもの。初演は1910年12月10日、トスカニーニの指揮、エミー・デスティンのミニー、エンリコ・カルーソーのディック・ジョンソンという豪華メンバーで行われた。METはこの時まだできて20年あまりの若い劇場で、ヨーロッパのオペラ界を代表する作曲家プッチーニに新作を委嘱し上演することで、アメリカの音楽文化がヨーロッパのそれに比肩するようになったということを宣伝する意図も十分にあったと思われる。

 さて今回の上演、話題は何といっても「世界のスーパーテノール」ヨナス・カウフマンが4年ぶりにMETの舞台に立つこと。実際、私もそれを目当てライブビューイングに足を運んだわけだが、「カウフマンが歌う」ことだけで評価されるほどニューヨークの、いや世界のオペラ・ファンは甘くはない。結果として、プロダクション全体のクオリティの高さによって人々の記憶に残る公演となったといっていいだろう。

 まず、タイトルロールであるミニーを歌ったエヴァ=マリア・ヴェストブルックの充実ぶり。ミニーは金鉱夫相手の酒場を経営し、時にライフルも扱う強さを持った女性だが、同時に恋にはひどく奥手で、「初めてのキスの相手」にことさらこだわってみせるところなどは、やや「こじらせてる女子」的でもある。ヴェストブルックは、ギリギリのところで「こじらせ」よりも「純粋さと情熱」が勝つ演技を披露。これは計算してもできるものではなく、まさに彼女自身がインタビューで語っていたように「役が乗り移った」のだろう。時おり高音が金属的に響く箇所はあったものの、歌の安定感はさすがである。

 そしてカウフマンだが、おそらく彼は「嬉々として」ディック・ジョンソンという人物を演じていたのではないだろうか。盗賊の親玉で情婦もいる悪人なのに、純粋な娘に一目惚れしてしまい、彼女の家にまで行ったのにキスひとつで帰ってしまおうとする。あわや縛り首というところで彼女の懇願によって命を救われ、「みなさんありがとう」とか言って去っていく。はっきり言ってディック・ジョンソンは「情けない男」である(ちなみにこのカテゴリーのトップを競っているのはドン・ホセとデ・グリュー)。かっこいいのに情けない。カウフマンがこのタイプを歌うと最強に萌えるのは私だけだろうか。もちろんそれは、彼の「表現力」のすごさによるものなのだけれど。そして「表現力」の点で、ヴェストブルックとカウフマンのコンビは最強だった。カウフマンの声の強靭さは最初から最後まで衰えることなく、素晴らしいパフォーマンスだったことはいうまでもない。

 幕間のインタビューでMETラジオ解説者のW.バーガーが、「プッチーニがなぜアメリカを舞台にした西部劇に興味を惹かれたのか(原作は『蝶々夫人』の原作者でもあるデイヴィッド・ベラスコの劇)」について語っていた。『蝶々夫人』の日本のように、『トゥーランドット』の中国のように、彼にとってアメリカ西部は「異国」だったのだという。どこかの遠い星のような想像もつかない場所ではないが、自分のいる場所とは違うところ、そしてそこでは何か信じられないようなことが起きるかもしれない場所としての「異国」、それがアメリカ西部なのだと。つまり『西部の娘』も、プッチーニのエキゾティシズムに属する作品だという解説は非常に腑に落ちた。だからこの作品では、のちの『トゥーランドット』にも繋がるような五音音階や全音音階が多用され、まるで「マーラーのような響き」がするのだ。つまり、プッチーニが「一歩先」へ進んだことを示す作品、それが『西部の娘』なのである。

 脇役ではミニーの友人で酒場のバーテンであるニックを歌ったイタリアのベテラン・テノール、カルロ・ボージの声が耳に残った。西部だ、ガンマンだ、金鉱掘りだと騒いでいる中で、なんだかそこだけ『トスカ』や『ラ・ボエーム』のような、「やっぱりこれってイタリア・オペラ」という響きがしたので。

 さらにもう一点、指揮のマルコ・アルミリアートなくしてはプロダクションの成功はなかっただろうということも強調しておきたい。自由自在にオケを操る、という言葉がこれほどふさわしい指揮者もいるまい。相変わらずの暗譜(!)で、プッチーニらしさが満開のメロディからエキゾティシズムを感じさせる不協和音まで、プッチーニがこの作品に込めた「一歩先」を見事に具現化してみせた。

2018年12月7日、東劇。

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