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「今」を照射する音楽劇〜【Stage】Pカンパニー第34回公演『三文オペラJAPON1947』

 ブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ』は私の偏愛するオペラ(と敢えて呼ぶ)である。初演の1928年はふたつの世界大戦の間にあたり、歴史上初の民主主義国家である「ワイマール共和国」となったドイツで、爆発的に花開いた文化活動を象徴する作品として知られる。両大戦間=ワイマール共和国時代のドイツにおける音楽文化のひとつの大きな特徴は「社会諷刺」だ。「社会諷刺」を盛り込んだシャンソンを盛んに作り出し、一躍時代の最前線に躍り出たのが前世紀末のパリで誕生しドイツに輸入された芸術キャバレー(ドイツ語ではカバレットという)なのだが、『三文オペラ』はこのカバレットの特徴をテクスト、音楽、そして芝居全体に持ち込むことで時代の象徴となったといっていい。ブレヒトとヴァイルが従来のアリアに代わるものとして生み出した「ソング」と呼ばれる歌のスタイルは、カバレットで生まれたシャンソンから少なからぬ影響を受けているし、実際『三文オペラ』の初演には当時のベルリンで大人気のカバレチストが出演してもいる。
 このように時代と密接に結びついた『三文オペラ』を今、しかもここ日本で上演する場合、このオペラに備わっている精神をどう体現するのか、という点が大きな関心事となる。当時の装置や美術をまねて、書かれているテクストをそのまま歌ったところで、それは単なる懐古趣味、博物館に飾られた古美術を愛でることにしかならず、そのような作品は『三文オペラ』の精神からはもっとも遠いからだ。私がこれまでに観てきたいわゆる「クラシック畑」のプロダクションは、この点でほぼ失敗している。

 今回観たのは、Pカンパニーという劇団の公演。私は演劇には詳しくないのでどのような劇団なのかまったく知らなかったのだが、どこかで手に入れたチラシに「おっ」と感じるものがあり、池袋のシアターグリーンに足を運んだ。そして結果的にこれが大正解だったのだ。

Pカンパニー『三文オペラ』チラシ

 公演名に『JAPON1947』とついているように、このプロダクションは舞台を1947年=昭和22年、戦後すぐの東京に移している。舞台上には「三文オペラ」の文字が縫い付けられたパッチワーク風のうす汚れた幕がかかり、舞台の両端には昔懐かしい電球のついた木の電柱が1本ずつ。まず登場した口上役は、カーキ色の国民服に帽子をかぶっている。彼が出てきただけで、そこが焼け野原となった戦後すぐの東京だということがわかる。これはただならぬ役者だ、と密かに舌を巻く。ちなみに口上役を演じたのは磯貝誠。プログラムによればPカンパニーの俳優部に所属する団員のようだ。ご存知のように口上役は開幕一番「メッキー・メッサーのモリタート」を歌うのだが、歌詞はすべて日本語で内容も設定に合わせて変えられている。モリタートで紹介されるのは闇市で稼いでいる悪党の親玉、その名も牧村正輝、通称「匕首マッキー」!というところで、もう私はこの劇の面白さを確信していた。ロンドンのソーホーを根城にする乞食商会は、戦争孤児や復員兵などを集めて組織する「自由労働者の会」になり、社長のピーチャムは野原正吉で、娘のポリーは美智子。マッキースの情婦である娼婦のジェニーは新宿二丁目で娼館を営む川島明美。マッキースの親友である警視総監タイガー・ブラウンは鮫島虎雄。マッキーと美智子の結婚式は、オリジナルでは厩だが、さすがに東京に厩はないのでこれは倉庫に。ただ結婚式を取り仕切るのは酔っ払いの神主とエロい巫女で、雅楽風にアレンジされた「モリタート」が流れてきた時には思わず吹いてしまった。
 このように、これは一種の「読み替え演出」なのだが、設定に穴がなく、かつ遊び心がふんだんに盛り込まれていて飽きさせない。ソングに当てられたテクストもメロディに無理なく乗っていて、脚本・演出を手がけた木島恭の並々ならぬ手腕を感じさせる。
 
 ワイマール共和国時代は確かに文化の爛熟期だったが、一方で第一次大戦の敗戦国であるドイツは多額の賠償金を課せられ、庶民はインフレに喘いでいた。民主主義といっても小政党が乱立し、それゆえ政権基盤は定まらず、暗殺が横行するなど、政治不安、社会不安の時代でもあった。こうした不安の中からナショナリズムの芽が生まれ、それがナチスとなって全体主義へとなだれ込んでいくのは歴史が示す通りだ。『三文オペラ』は、投機が流行し、金と欲にまみれた当時の社会を痛烈に皮肉っていく。曰く「善行を施したくでも金がなけりゃ何もできない」「金のためなら親兄弟さえも平気で裏切る」。お金のために悪事に手を染めることも厭わず、お金を稼ぐことが絶対的に賞賛される社会。弱者や他者は顧みられず、思いやりや愛情も金の前では無力。お金さえ持っていれば大抵のものを手に入れることができたという闇市が舞台のこのプロダクションは、確かにワイマール共和国と戦後すぐの東京とが呼応しているのだが、ここでもうひとつ重要な視点があることを忘れてはならない。それはもちろん、「今」のこの国だ。いかに身内で金を取り合うかしか興味のない政治家に、金の力で政治家を動かす大企業。そんな社会を直視せずただ娯楽に明け暮れるだけの庶民たち。ここ数年の日本の姿が、戦後の東京に、『三文オペラ』のドイツに重なっていく。「金さえあれば幸せ!」「金をよこせ!」というテクストが、客席を正面から射抜くのだ。
 真正面から批判するのではなく、少し斜に構えたところから現実をあからさまに暴き出して見せることこそが、ドイツのカバレットから『三文オペラ』が受け継いだ「社会諷刺」の精神である。その意味では、「1947年の東京」という場所から「現代の日本」の状況を照射してみせるこの舞台は、正しくその精神を受け継ぐものだといえるだろう。

 こうした舞台の「作り」の確かさもさることながら、私が特に関心したのが出演する役者陣の演技と歌のうまさだ。大宜見輝彦はアクの強い日活スターのような風貌でいかにも闇市でのし上がってきた「匕首マッキース」を好演。野口正吉の内田龍播、鮫島虎雄の森源次郎の渋さと軽さの同居具合もいい。明美を演じたみとべ千希己は妖艶さを振り撒きつつもどこか切ないムードを漂わせていて、私が思うジェニー像にピッタリだった。他の出演者もとにかく歌がいいので、コーラスになった時の迫力がすごい。もちろん、ベルカントではないので声楽的に「うまい」わけではないが、ブレヒト/ヴァイルのソングはそもそも専門的な教育を受けた歌手を想定していないし、何よりもテクストの内容をどう表現するかという点を出演者全員が明確に意識し、さらにそれをメロディにきちんと乗せることに成功している。そしてこれは、クラシック畑の歌手が『三文オペラ』を演じる際に、常に不満に感じていた点なのだ(オペラ歌手、頑張って!という気持ちになってしまった)。

 ところでこの舞台、演出家は1989年にメナハム・ゴーランが映画化した『三文オペラ』を参考にしたのではないだろうか。マッキースと結婚式を挙げた翌朝ポリーが家に戻ってくるシーンで、口上役がポリーに「親たちにはなんて説明するつもり?」と尋ね、ポリーが「バルバラ・ソング」で答えるシーンが採用されていたし、ピーチャム夫人(舞台では野原芳恵。いまむら小穂が熱演)の帽子とコートもちょっと映画版と似ている。ちなみにこの映画では口上役をザ・フーのロジャー・ダルトリーが演じて、ものすごくチャーミングだったのだが、磯貝誠はどこか彼を彷彿とさせる。実は『三文オペラ』でいちばん鍵を握っているのはこの口上役なのだが、今回はラストまで八面六臂の活躍だった。

2021年12月16日、シアターグリーン BOX in BOX THEATER

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