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彼女の涙

 吉田静香は同期の中でも頭ひとつ抜きん出た存在だった。出身大学の偏差値だけでなく、新人研修のチーム課題での対応ぶりや、修了レポートの出来を見てもそれは誰の目にも明らかだった。花形の広報部に配属されたのも納得だ。私はと言えば、人より前に出るなんて苦手中の苦手、代わりにちまちまと細かなサポート的業務には適性があるとみなされ、業務推進部への所属が決まった。
「花笑(はなえ)さんは謙虚っていうか、後ろに後ろに下がっちゃう性格なだけで、優秀だと思うよ」
 苗字が同じなため、私たちは社内全員から下の名前で呼ばれている。“できる方の吉田”と“そうじゃない方”って呼ばれないようにしろよ、という同期の男子の軽口に、静香さんはそんなことを言ってくれた。
「研修の時の課題だって、発表する役がどうしても目立つけど、みんなで集めた情報をスプレッドシートにまとめて色分けして整理してくれたの、あれすごく助かったし」
「事務処理っぽいのは嫌いじゃないんだよね。でも、静香さんみたいに堂々と発表したり、論理的な考え方みたいなのができなくて」
「私は細かい仕事は苦手。全員が同じ適性じゃあ回らないんだし、分業できてありがたかったよ」
 このように、同期へのフォローまで行き届いているのだ。

 入社して半年経つか経たないかくらいの頃、私の確認不足から営業チームに迷惑をかけてしまったことがあった。発注書に従って倉庫に指示を出し、自社商品をクライアントのイベント会場に直接送付するはずだったところが、希望時期が倉庫の棚卸し作業の日程と重なってしまっていて「そのスケジュールでの発送には対応できません」という倉庫担当者からのメールを見落としていたのだ。イベント前日、クライアントからの「商品がまだ届かないんだけど大丈夫?」という連絡で発覚し、営業課の社員が青い顔で飛んできた。
「どうするんだよ、明日の十時に開場するのに!」
 十歳近く年上の男性社員に大声で詰め寄られ、反射で目の奥が熱くなった。いけない、と思ったけど止められず、生ぬるい滴が頬を滑り落ちた。
「なに泣いてんだよ。五百万もらってる案件だぞ」
 昔からこうなのだ。実はそんなに泣くほど落ち込んでいるわけではない時でも、気持ちより先に涙が出てしまい、泣いてしまったことで混乱に拍車がかかり、言葉が出てこなくなってしまう。社会人になったというのにこの有様で、その不甲斐なさにますます喉が詰まる。
「急いでるなら、怒るより先に対応した方がよくないですか」
 先輩の怒鳴り声が止まった一瞬の隙間に、落ち着いたアルトの声が割って入った。
「イベントの概要ってすぐ出せる?」
「う、うん」
 静香さんの冷静な声に従い、キーボードを叩いて概要ページを表示させる。
「これ有料の事前登録制ですよね。ってことは必要な個数の上限って確定してますよね。何点必要なんですか」
 ページを確認した静香さんが、振り返って先輩を見た。
「五十点だけど」
「予備を考慮しても六十あれば十分ですよね。その数なら今から小売店回ってかき集められるでしょう。回ってくるんで営業車空いてたら貸してください。あと、免許持ってて手が空いてる方いらしたらご協力お願いします」
 一緒に来て運ぶの手伝って、と手を引かれ、私はティッシュで涙を拭い、足早にフロアを出る静香さんの後に続いた。

 小売店を四店回り、協力してくれた同期が回った三店から集めた分と合わせて、六十点の商品が手元に揃った。いったん会社に戻って担当の営業社員を拾い、明日の準備真っ最中のイベント会場まで車を飛ばす。営業社員と一緒に頭を下げ、配布準備の手伝いも行い、間に合わせてくれて助かったよ、とのクライアント担当者の一声にやっと安心して、そこでも零れそうになった涙は辛うじて堪えた。
「まあ、何とか間に合ってよかったよ」
 私よりさらにぴりぴりしていた営業社員こそ安心したようで、数時間前とは別人のように穏やかな声を発した。
「そうだ、先輩」静香さんが思い出した、という顔をした。「これを機に、社内の連絡フロー見直せませんか。メールって振り分け間違いもあるし、必ず届くと言えるほど信頼できるツールじゃないので、今回みたいに受け手側で追加対応が必要、かつ急を要する連絡が埋もれるのを防ぐ仕組みがあった方がいいと思います」
「それもそうだな」
 改めて深々と迷惑をかけたことをお詫びする私の後頭部に「遅くまでお疲れ」と声をかけて、先輩は帰っていった。
「お腹空いたね」
 迷惑かけてごめん、と私が言うより先に静香さんが口を開いた。
「何か食べていかない? あ、でも花笑さん実家か、急に外食だと困ったりする?」
「あ、ううん、大丈夫。遅くなるよとはさっき連絡してるし」
「じゃあ軽く食べて帰ろうよ」
 駅前の洋風居酒屋に入り、お疲れさま、とグラスを合わせる。
「今日は本当にありがとう」
 落ち着いたところで改めてお礼を言うと、静香さんは口元を緩めた。
「全然いいよ。私だって今後何か助けてもらうことあるだろうし、お互いさまってことで」
「静香さんが私の助けを必要とするシーンが想像できないよ」
「そんなことないよ。何かあったらよろしくね」
 研修中はずっと一緒に行動していた同期だけど、別の部署に配属されてしまえば、オフィスで顔を見かけることはあっても言葉を交わす機会はあまりない。向こうがエースなのが明らかなのもあり、くだらない雑談をふるのも憚られて交流が持てなかったけれど、こうやって話し始めてしまえば、研修時の気安さも戻ってくる。
「花笑さん、意外とお酒強いよね」
「別に飲まなくてもいいんだけど、アルコールは結構分解できる体質かな。静香さんはキャラの割に飲めないよね」
「キャラの割にって」ぺちん、と肩を叩かれ笑う。「そうなの、だから営業最前線に出されたらやだなーとか思ってたんだけど、研修中に“物怖じしない感じが営業向き”とか言われてめっちゃ焦った」
「焦ってたの? なら焦った顔してよ分かんないよ!」
「よく見てたらこう、たらっと冷や汗かいてたから」
 結局そこから二時間くらい飲んでから、会社にいる時よりずっと饒舌な、ピンク色の頬をした静香さんと駅で別れた。
「迷惑かけておいて何だけど、静香さんと飲める機会ができてよかった」
「何にもなくても、これからもちょくちょく飲もうよ」
「もちろん!」
 帰りの電車の中で、ぽっと胸が温かかったのは、お酒のせいよりも、久しぶりにできた新しい友達の余韻のおかげだ。

「花笑さん、家族仲いいでしょ」
 二人飲み会がすっかり恒例化したある時、静香さんが唐突に断言した。
「悪くはないけど、まあ普通だよ」
「じゃあ家族の好きな食べ物って分かる?」
「父が明太子で、母が揚げ出し豆腐、兄はドライカレーかな。いや生ハムかも」
「それすぐ出てくる時点でかなり仲いいんだよ。しかもやっぱりお兄ちゃんいた」
「やっぱりって何よう」
「最近知った話なんだけどね」
 ちょうど届いた串盛り合わせを置くスペースを作りながら、話を続ける。
「困ったことがあったり、何かトラブルに直面したり、誰かから攻撃されたりした時に涙が出るっていうのは、それまでの人生で、困った時に助けてくれる人に恵まれてた人の特徴なんだってさ。逆に、怒ったり、すぐ反撃に転じられる人は“助けは来ない”って思ってる傾向があるって」
 言われて、記憶を辿る。そもそも割と平穏に生きてきた方なので、トラブルに直面したことって何かあったかな、というところから振り返らなければならない……ということは、つまり記憶に残るほど盛大に追い詰められた経験がないということなんだろう。
「まあ、甘えてきたと思う。だから色々だめなんだよねー」
「全然だめじゃないよ。花笑さんって何か、何か助けてあげたくなっちゃう雰囲気あると思ってたから、その説聞いて納得いくなーと思ったの」
「ありがたいけど、私自身には実力がつかないままになっちゃいそう」
「その“つい助けてあげたくなっちゃう雰囲気”って、つまり花笑さんの人徳ってことだよ。その結果、助けを集められて良い成果が出るなら、そこまで含めて実力だと思う」
「何かそれすごく私に都合良すぎない?」
「結果が良ければそれが全てだもん」
 静香さんの実家があまり円満ではないことは、何となく察していた。それを可哀想と思うのも失礼な話なので、特に感想を抱かないようにしていた。
 でも、静香さんから彼氏ができたと聞いた時、他の友達から同じ報告を受けた時よりも余計に喜んでしまったことは大目に見てほしい。
「どこで知り合ったどんな人?」
「ウェブメディアの記者の人。何回か展示会で顔合わせて、何となく仲良くなって。七歳上だからちょっと離れてるんだけど」
「えー、全然いいよ。静香さんは年上の方が精神年齢合いそうだし」
「そうかなあ」
 お恥ずかしながら初彼でして、という一言には、思わずばしばしテーブルを叩いてしまった。
「仕事がんばってるところを見て好きになってくれるのって、すごくいいと思う」
「花笑さんは、付き合ってる人とかって」
「今はいないよ」
 大学時代に付き合い始めた彼は、私が新人研修で忙しくしていた頃に、会う回数がぐんと減った流れで自然消滅していた。社会人になって変化した生活ペースにまだ完全に適応できていないこともあり、しばらくはいなくてもいいかな、とも思っている。
「何かこっぱずかしいね、友達にこういう話するの」
「どんどん聞かせてよ、こっちは聞く体制は整ってるから!」
「困ったら相談とかさせてもらうかも。その時はご指導よろしくお願いします先輩」
 ふざけた口調の奥に面映ゆさを隠しているのが分かって、静香さんの頬を両手で挟んでぷるぷる揺らした。

 総務からその内線がかかってきたのは、そこからさらに四ヶ月ほど経ったある日だった。たまにおやつをくれたりするベテラン総務のお姉さんは、やや不審げな声を出した。
「花笑ちゃん宛に、関口さんっていう女性の来客がいらしてるんだけど、心当たりある?」
「関口さん……聞いたことがあるような、ないような」
 基本的に内勤の私に、来客があること自体が珍しい。
「とりあえず五階まで上がってきていただくよう、伝えてもらえますか」
 顔を見たら思い出すかもしれない。フロアの隅にある応接スペースが空席になっていることを確認して、そうお願いした。
「吉田さんですか」
 フロアの入り口に現れた女性は、セミロングの髪をまとめ、黒のパンツスーツを着た、三十そこそこくらいに見える人だった。
「関口ですが」
 全く見覚えがない。しかしこの人も今「吉田さんですか」と言った。つまり過去に会ったことはないのではないか。
「関口啓の、妻ですが」
 せきぐちけい。高校の同級生に京という名前の子がいたけどあれは女の子だったな、などと思いながら「はあ」と相槌だけ打った。すると
「“はあ”とか言ってる立場じゃないんじゃないですか?」
 声のトーンが急に上がった。ばっ、と眼前に何枚かの紙束が突きつけられる。
「夫とお付き合いされているようなので、その件についてお話を伺いたいんですけど!」 同じフロアの全員が一斉にこちらを見た、その視線が私の背中に集中したのが分かった。正面からは“関口さんの奥さん”の眼光を浴び、普段ならこの圧力だけで涙が出かねないけれど、この時は涙よりも疑問を質したい気持ちが勝った
「知りません」
「何言ってるの」
「その関口啓さんって方、私、存じ上げません」
「言い逃れとしては、ちょっと無理がありすぎませんか」
「でも本当に知らないんです。付き合ってる人もいませんし」
「だってあなた、吉田さんでしょ」
「あの」入り口近くの席に座っていた社員が、遠慮がちに声を上げた。「弊社、吉田という苗字の女性が二名おりまして……」
 静まり返ったフロアに、関口さんの奥さんの「え?」という声が響いた。

 吉田静香の不倫相手の妻が会社に乗り込んできた、というニュースは、静香さん本人が外出から戻った午後四時半過ぎには、社内全体に広まっていた。「戻りました!」と快活な笑顔でフロアに足を踏み入れた静香さんは、自分に集まった全員の視線に眉根を寄せ思案顔をした。隣の席から目で促された私は、静香さんの腕を掴んで空き会議室に押し込んだ。
 私の説明を聞いた静香さんは一言「知らなかった」と言った。
「分かってる」
 デートの話を聞かせてくれた時のあの笑顔の裏に、隠し事があったようには思えなかった。
 静香さんはしばらく黙って、テーブルの一点を見つめていた。やがて顔を上げ、私をまっすぐ見た。
「奥さんの連絡先って分かる?」
「あ、うん、預かってある」
 関口さんの奥さんは、自分の誤解に気づくと居たたまれなくなったようで、調査会社の結果資料のコピーと自分の名刺とを私に託し、「ご本人に、ご連絡お待ちしていますとお伝えください」と言い置いて、そそくさと立ち去った。預かったものを渡すと、静香さんはまず資料にくまなく目を通した。うん、うんと小さく頷きながら紙をめくっていくその姿は、研修の資料を読んでいる時と同じ真剣さだった。最後まで読み終わり、とんとんと紙の端を揃えた。
「分かった。ありがとう。ていうか面倒かけてごめん」
「静香さん全然悪くないのに謝らないでよ」
「塩田あたり、“品行方正な方の吉田”と“そうじゃない方”とか言ってきそうだなー」
 同期の男子の軽口を引っ張り出して口の端をつり上げるのを見ているのが辛かった。
「花笑さんがそんな顔しないでよ」
 静香さんの笑顔が、いつものものに戻る。
「だって」
「大丈夫。本当に知らなかったから私に非はない」
 ひとつ大きく息を吐き、静香さんは立ち上がった。
「よし、戻ろう」
 オフィスに戻った静香さんは、上司の席に直行し、手短に用件を伝えた。迷惑をかけたことに対しての謝罪。自分に非はない旨の報告。本日の午後半休と明日の有給休暇取得の申請。広報部長は三回頷き、静香さんはデスク周りを片付けるとバッグを肩にかけ、「早めですが本日はこれで失礼いたします!」と高らかに宣言して帰っていった。強っ、という呟きが聞こえた方を振り返ったけれど、誰が言ったのかは分からなかった。

 翌日の夕方、私物のスマホの着信に気づき、急いでバッグから取り上げて画面を見ると静香さんからだった。周りの目を避けて給湯室に退避し、通話ボタンをタップする。
「もしもし、ごめんね急に。まだ会社?」
「うん、そうだよ」
「よかった」
 静香さんの声から落ち込みも動揺も感じられないことにほっとしつつ、続きを待つ。
「いきなりで申し訳ないんだけど、明日って有休取れたりする?」
 抱えている案件の数とそれぞれの期限を頭の中で振り返り「大丈夫」と返す。
「じゃあさ、悪いんだけど、明日ちょっと手伝ってほしいことがあって、一日休み取ってもらえないかな。あと、会社に結構いいビデオカメラあったよね。あれ借りられないか聞いて、いけたら借り出してきてもらえると助かる」
「ビデオカメラ、うちにあるのでよければそれ持っていこうか? たしか私が高校卒業する頃に買ったやつだから最新じゃないけど」
「すごくありがたい」
 集合場所とか追って送るね、と通話は切れた。

 さらにその翌日、指定された待ち合わせ場所であるオフィス街に近い駅の改札に現れた静香さんは、きちんとスーツを着た、仕事の時のようなスタイルだった。トートバッグの中には、紙の束がごっそり入っている。
 先導されて到着したのはビルの前だった。エントランス前に掲げてあるロゴはうちも付き合いのあるウェブメディアを運営している会社のものだ。
「静香さん、あのさ、ここって」
「うん」
 受付にある内線電話の受話器を手に取り、静香さんは「お約束していた吉田です」と言った。奥さんから上司の名前聞いたの、と私に補足までする、行き届いた対応。
 指定された階までエレベーターで上がり、フロアの入り口でもう一度名前を伝え、ロックを解除してもらう。
「録画始めてもらえる?」
 私はカメラを構え、録画開始のボタンを押した。モニターは静香さんの斜め後ろ姿を捉えている。
 堂々と足を踏み入れた静香さんの背中を、適切な距離を取って追う。奥の方に座っていた年輩の男性がこちらを見て頷くのと、手前に座っていた三十代くらいの男性が立ち上がって「え?」と目を見開くのも記録した。
「お仕事中に失礼いたします。部長さんには昨日お電話でお話いたしました通り、そちらにいらっしゃる関口啓さんが既婚者であることを隠して私と付き合っていた件について、状況の説明と、私が関口さんを独身だと思っていた事実の証明と、今後の対応についてのご相談に参りました」
 え、え、ちょっと待って、しーちゃん、と狼狽える関口さんの前を素通りした静香さんは部長さんに歩み寄り、バッグから取り出した紙の束を一枚ずつ、デスクに置いていった。
「まずこちら、十一月の展示会で初めてお会いした後、社用のメールアドレス宛にご連絡いただいた時の画面を印刷したものです。冒頭をご覧いただくとお分かりの通り、関口さんの方から最初にご連絡がありました」
 カメラを向けた資料の、冒頭の一カ所がラインマーカーで強調されていた。
「ここから二枚は同じく社用のアドレス宛のものです。その次に別のイベントで顔を合わせた際にプライベートの連絡先を聞かれましたので、以降は私用のスマホの画面キャプチャです」
 縦長の画像が印刷された紙が四枚目として置かれた。
「私が都合の悪い部分をカットしていないことの証明として全部印刷しましたが、意味のないやりとりもありますので説明は省略いたします。次はこちら、ここの関口さんからのメッセージで、“独り暮らしの男なんてだいたいそんなもんだよ”とあります。これは自分が独身であると私に思い込ませようとした言い回しだと思われます」
「ちょっと待って、し、吉田さん、あの、会議室かどっか別の場所で」
「関口さんの奥様は一昨日、私の職場で私の上司や同僚の目の前でお話しになったようなので、私も同じようにさせていただきます」
 静香さんはちらりとも目を向けず言い放った。剣幕に押された関口さんは、そこでようやく私の存在に気づいた。
「ちょっと、君、それ何撮ってんの、ちょっと貸しなさい」
「やめてください!」
 声を上げ、カメラに伸びてきた手をはねのけたのは、私ではなく静香さんだ。
「奥様と、私の職場に提出するために録画してます。邪魔しないでください」
 顔を引きつらせ黙った関口さんの表情を撮影しながら、ああそういう用途だったのか、と今更思った。

 昨日の夜、カメラを貸してほしいと父に頼むと、ああいいぞとすぐに棚から一式を引っ張り出してきてくれた。
「バッテリーを充電しておくのを忘れないようにな。三時間くらいは保つと思うけど、心配だったら二つ充電して、予備として持っていきなさい」
「はあい」
「使い方分かるか?」
「花笑は撮られる方専門だもんな」兄が会話に混ざってくる。「今のうちに練習しときな」
 ここを開けて、電源はここ、ここのスイッチでモード切替ができる、と父に教えてもらっていると、兄が部屋から何か持って戻ってきた。
「それ、ずっと構えて撮ってるとまあまあ重いだろ。ハンズフリーで使えるスタンドあるけど持ってくか?」
「えー、何か大袈裟な感じだからいいや」
「そ。手首傷めないように気をつけろよ」
 教わったとおりに電源を入れ、カメラを構える。壁を撮ってもつまらないので台所に移動し、何か作業をしている母の後ろ姿に声をかけると、笑顔で振り返った。
「あら、ビデオ? どうしたのいきなり」
「明日使いたいから、ちょっと練習」
「そうなの? でもお母さん撮らなくてもいいわよ恥ずかしいし」
 言いながら、ガラスの器に盛ったイチゴを差し出してくれる。
「はい、デザートどうぞ」
「ありがと」
 一つ摘まんで口に放り込む。器を持ち「お父さんとお兄ちゃんも、イチゴどうぞー」と声をかけながら母はリビングに向かった。

 もしも私が今の静香さんと同じ目に遭ったらどうなっていたかなと考えると、容易に想像ができた。身に憶えがないのに弁解もできず、私はきっとぼろぼろ泣いて会社を飛び出し、落ち着きたくて家に帰る。私の様子がおかしいのに母はすぐに気づいて、どうしたの、何かあったのと聞いてくれる。私が話すと母も、仕事から帰ってきて話を聞いた父と兄も真っ青になって怒る。兄に手伝ってもらいながらメールやLINEのスクショを保存し、父は大学時代からの友達で、今は弁護士をしている潮見のおじさんに連絡をしてくれるだろう。私はほとんど泣いているだけで事態は解決し、辛かったら転職したっていいんだよ、などと甘やかされ、でも仕事を続けたいと首を振る私に、花笑は強くなったなあ、などとすら言ってもらえそうだ。

「ここもご覧ください。“俺も同じだな。焦ってるわけじゃないけど、本当に気の合う相手とだったら一緒に暮らすのも楽しいと思う”。これを見れば、現在は誰とも一緒に暮らしていないと受け取るのが自然ではないでしょうか」
「今日は関口さんは結婚指輪をされているようですが、私が今までお会いしていた時に指輪を付けていたことはありませんでした。何枚か写真をプリントアウトしましたので、ご確認ください」
「私が、関口さんの家にも遊びに行きたいと送った際の返事としてこのように、狭くて散らかっていることを理由に断っています。私が家に行きたいと希望していることからも、私が関口さんを独身だと思っていたことが見て取れます」
 傍で聞いている私にも、関口さんが静香さんをどうやって丸め込んでいたのか、手に取るように分かる。説明に過不足がなくタイミングも適切で、滑舌も良くて聞き取りやすいからだ。分かりやすく整理された資料の、まとめ方の癖に何となく既視感があったのだけれど途中で気づいた。私のまとめ方に似てる。参考にしてくれたのだろうか。
「以上をもちまして、私は関口さんがご結婚されていることを存じ上げず、関口さんが意図的に私を騙していたという証拠とさせていただきます」
 淀みない口調。落ち着いたアルト。振り返った静香さんが関口さんを睨み付けた。
「また、こちらの映像は、関口さんの奥様が離婚を希望された場合、裁判時の証拠としてコピーをお渡しすることも検討しております」

 そうか、これが彼女の涙なんだ。

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