#18 ドアを開けた先に待っていたもの
前回からだいぶ間があいてしまって、気づいたらもう9月になっていた。夏はどこに行ってしまったんだろう。バンクーバーはもうかなり涼しい。
改めて振り返って、祖父の遺した言葉の重さに、実は少し押しつぶされそうになっていた。
私は拾った命を恥じないように使ってるのだろうか。
いや、無秩序に日々暮らしているだけで、何の役にも立っていない。
こんなんでいいのか?と思うけれど、でも命拾いしたからと言って、いきなり聖人君子などになれるわけもないし、世界を救えるわけでもないのだ。
何もない平穏な日々の暮らしがどんなに大切か、病気をして初めて分かった。そしてそれは、ある日突然いとも簡単に奪われる可能性があることも。
だから私は平凡で平穏な暮らしを、営々と、心を尽くして生きていくのだ、と思い至った。
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さて、祖父に会いに日本に数ヶ月帰国していたが、いよいよ仕事を探さなければならないし、バンクーバーに戻ってきた。
長年旅行業界にいたのだけれど、業種は違ってもオフィスワークならどこかで仕事が見つかるだろうとタカをくくっていたが甘かった。
直接の経験がないと、誰も見向きしてくれない。オフィスアシスタントのような仕事の場合、ある程度のタイプスピードが求められるが、左手の動きが前より鈍いので、タイプスピードもかなり下がっていた。
どうしよう。貯金も減る一方だ。いよいよ不安になって、Open Door Groupという障害を持つ人が仕事につくのをサポートする非営利団体にお世話になることにした。
私は障害という障害は残らなかったので、本当は相談するのもちょっと気が引けたが、医師への照会や面接などの審査を経て、無料のサポートを受けられることになった。
履歴書の添削から、コンサルティング、履歴書を送った会社にはフォローアップの電話をしてくれ、例えばその会社が、障害を持った人が働ける環境を整える必要がある場合には、政府から補助金が出るよう交渉してくれたりもする。
私の場合は、普通のオフィスで問題なく仕事できるので、職場の環境を私に合わせてもらう必要はない。だから、基本的には就活のバックアップをしてもらうだけだった。
それでもなかなか仕事が見つからない。こういった団体を通して応募しているせいではないし、差別されてるわけでもないだろう。
旅行業界での経験は特殊だと思われるのか、なかなか他の業界で評価してもらえないのが現実だ。要するにツブシがきかないのだ。
しばらくして、担当のコーディネーターが、駐車場運営管理会社の受付の仕事があると紹介してくれた。
私は受付嬢にはトウが立ちすぎている。けれど、もはや背に腹はかえられぬ。私の銀行口座が、そんなこと言ってる場合かとわめいている。
えいやっとその扉を開け、人事担当者と直接の上司となる社長秘書との面接を受けた。
無難に一般的な面接を終えると、社長秘書が最後に、これから2、3年先、自分が何をしていると思う?と聞いた。
私は正直に分かりませんと答えた。だって、大学を卒業してからずっと身を置いていた愛する旅行業界を離れて、世の中に他にどんな世界があるかも知らないのだ。
後から聞いたら、私はその率直な発言で採用されたのだそうだ。
この後、一生の友情を築くことになるこの社長秘書である上司は、若い頃同じ思いをした。だから気持ちがよくわかる、と採用を決めたらしい。
縁があった、というのはこういうことなのだろう。
私は受付の仕事を始め、上司の片腕として意外と活躍していたのを認められて、法務の仕事はどうだと勧められた。法務部の人たちにも私はパラリーガルに向いていると勧められた。
旅行業界にいた頃からだいぶ収入が減っていて、どうしようかと思っていたところだったので、勧められるがままにあまり深く考えず、会社の援助を受けてパラリーガルになるべく、コミュニティカレッジに通うことになった。
人生どこでどうなるか分からないものだ。40を超えて、また勉強するなんて思ってもなかった。
昼間仕事して、夜は学校、週末もひたすら勉強した。恐らく大学受験の時より勉強しただろう。だいたい法律を母国語以外で学ぶというのは、さらにハンデだ。しかも法律用語にはラテン語由来のものが多い。
だけど日本語ならもっとすんなり理解できるかも知れないというのは幻想だった。法律用語は、日本語だと尚更分からない。仕方なく諦めて英語のまま理解することにした。
あまりにやることが多くて、元からの友達と会うことは限られたが、学校では新しい友達もできた。彼女たちとは今でも親交があり、時々情報交換したり、食事をしたりしている。
2年間そんな生活をして、どうにか無事終了し、私は社内の法務部で働くことになった。
40半ばでのキャリアチェンジである。
(#19に続く)
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