語ることができない幸福。
大学生だった頃、「これからたくさんの経験をするんだ」と意気込んでいた。
たくさんの夢を見ていた。
それから10年経った。
そして、そのうちのどれ一つとして、現実になることはなかった。
そもそも、現実にするための行動を取ることがなかったのだ。
僕の人生は自分の意志に反して、いやおうなく、内面に向かわざるを得なかった。
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洗濯物を取り入れるために、ベランダに出た時だった。
僕は唐突に、午後の青空に魅入ってしまう。
時間が止まってしまったように静寂が訪れ、車の行き交う音も思考も何もかもが消え失せた。
そのまま僕の心はハートに吸い込まれていった。
ハートの中に心が落ち着いている時、世界は蜃気楼のように不確実なものに感じられる。
僕の目は青空を観ているけれど、ほんとうは何も観ていなかった。
青空を観ている「わたし」がいなくなっていた。
あるのは、ただの無だ。
でも、それはまったく何も無いということではない。空っぽなわけではない。
そこには安らぎがある。
それから「安らぎ」にとどまったまま僕はベランダを見渡した。
そこに干されていた洗濯物が日光を浴びて光り輝く様子を見つめながら、
自我のない世界がいかに美しく、
祝福されていることだろう!と思う。
きっと、このハートの安らぎを求めるための人生だったんだな、と今、感じている。
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僕が得たものは、何の条件も必要としない静かな安らぎだった。
でも、この安らぎを誰かに分かってほしい、とは思ってはいけないのだろう、と僕は思う。
これはあくまでも、僕にとっての幸福なのだから。
もし、履歴書にこのことを書いたとして、いったいどんなアピールになると言うのだろう?
それは何の実績にも資格にもならない。世間の中で生かすことができるようなスキルではないのだから。
でも少なくとも僕は今、こう言うことができる。
「わたしは幸福です。」と。
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時々、僕は青春の月日を──この10年をまったく無駄にしてしまったのではないか?と後悔することがある。
そんな時、夏の青空がこんなふうに僕を待ち構えていて、そうした後悔を抱きしめて、ぬぐい去ってしまうのだ。
そうして、僕は「すべてがそうなるようになっていたんだ」と自分自身に言い聞かせることになる。
僕の周りにいる人たちは僕が昔とまったくちがう人間になってしまったことについてこんなふうに話す。
「あの頃、あなたはもっと笑って活発に過ごしていたのに……」と。
そして「あなたはまだまだ可能性のある若者でこれから努力すれば、何にだってなれるんだよ、そんなふうに独りで静かにしていて退屈でしょう?」
と言う。
僕は何も答えることができない。黙ったままだ。
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この前、姉夫婦及び両親と食事をした。姉夫婦は幸せそうに幼い子供たちの世話をしながら、
最近、上の子が保育園に通いはじめて、友達ができたことを話していた。
下の子は愛想が良く、ジュースを運んできた店員さんに「ああとござました!」と屈託のない笑顔でお礼を言う。それを見た両親は喜んでいる。
その幸せそうな風景を観ながら、僕はみんながこれからも幸せであってほしい、と心から祈りたい気分になった。
目の前で起こっていることの全てを肯定していた。
それと同時に自分にとっての幸福はまったく別のものになってしまったんだな、ということを知った。
賑やかなレストランの座席に座りながら、僕は自分がここではない別のどこかにいる気がした。
そして、こう感じたのだ。
もう戻ることはできないのだ、と。
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青空に魅入ってしまったのは、その次の日のことだった。
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