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不登校の霊的な理解

従弟が学校の先生になると言う知らせが入り、「よくそんな仕事に就けるなあ」と思った。学校には個人的に苦い思い出がある。

と言うか、不登校の時期があった。高校生の頃まで、場面緘黙、という言語障害があり、家族と親しい友人以外とは会話できなかった。

これは環境要因と遺伝要因の両方が混ざっており、親の教育のせいではない。

僕は自分が学校で話せないことがつらく、苦しかったけれど、何よりも、親が悲しんでいるのを見るのがつらかった。

よほど楽観的で、多様性を認めることができる親でない限り自分の子供には「普通」でいてほしいのだと思う。

そもそもなぜ学校へ行かないといけないのだろう?

その大きな理由は、「前へならえ!」が上手くできるようになるためだ。

「前へならえ!」がテキパキとできるようになると、学生を終え、就職し、会社員になったときに、今度は「上へならえ!」ができるようになる。

彼らは、とても素直に社会のために自分を捧げることができる。

僕は「前へならえ!」ができなかった。

動作が遅いということで、数師に目をつけられていたし、正直に言って、「このひとたち何をやっているんだろう」と馬鹿にしていた。

その頃、仲良くしていたS君という子がいて、彼は僕と真逆の不良少年だった。

彼は発育が早かったのだろう、背が高く、列の一番後ろだった。僕は今でこそ平均身長を超えるくらいになったけれど、発育が遅く前から二番目だった。

S君と僕は、性格も身長も真逆だったけれど、なぜか、仲が良くなった。きっと、不良少年と大人しい少年というのは、「レールに乗れない」、「上手く仕組みに合わせられない」という意味で同じなんだと思う。

表現の仕方がちがうだけだ。

前者は、教師に「うるせえんだよ!」と反抗するのに対して、後者は、自分が学校に合わない、ということを口に出すことができず、ただただ自分の部屋にこもる。そして、絵を描いたり、文章を描いたり、ゲームをしたりしている。

僕は大人になった今でも、街をあてどもなく歩いている不良少年を見ると、胸の深いところで、シンパシーを感じる。

かなしみのようなものを感じる。

きっと子供を持つ多くの親御さんたちは、子供が学校へ行ってほしいのは、安定してほしいのだと思う。僕の両親もそうだった。僕は大学を出させてもらいながら、企業に就職をしなかった。

「前へならえ!」ができなかったのだ、「上へならえ!」ができるわけがない。

中学生の頃、不登校になった時、両親は、カウンセラーの代わりに、ある霊能者の方に僕の相談をした。

「息子が学校へ行かなくて困っているんです」と。

その方は、両親にこう言った。

「あのね、気持ちは分かります。つらいことだろうと思います。でも、Naoki君がいてくれるからこそ、この家の家族が健康に生きているんですよ。この子がこの家に住んでいるからこそ、霊的なバランスが取れているんです。ご子息様のことをあれこれ心配しないでください。この子はただこの家にいるだけで良いんです」

そう言われて、両親は渋々納得したらしい。

ただ家にいるだけで良い」というのは、凄い言葉だ。

今、占星術的に風の時代、と呼ばれ時期に入り、どうしても従来の学校教育に馴染めない、意識の進化が進んでいる子供たちが増えているのだと思う。

でもどうしても大人たちは旧来の価値観を捨てきれないから、既存のシステムに子供たちをはめ込もうとする。あの霊能者の方が言った通り、ほんとうは、「ただそこにいるだけで良い」のだ。

問題だと思っているのは、エゴであり、左脳だ。むしろ、そう言う子供が家にいるのは宇宙からのギフトなのかもしれない。彼らは大人たちにたくさんの気づきを与えてくれるから。

音声で、ちょっとだけ詳しく話しています。

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