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北村透谷と自由民権運動【高校日本史を学び直しながら文学を読む6】

 今回取り上げる北村透谷ですが、名前は聞いたことがあるけど作品は読んだことがないという人が多いかもしれません。しかし、透谷は近代日本文学を語るときに欠かせない人物であり、日本近代史・思想史の分野でも重要な人物です。明治維新の年に生まれ、自由民権運動に傷つき、日本文学に内面化の道を開きつつ、燃え尽きるまで格闘を続けた透谷から学べることは多いはずです。
 まず、自由民権運動について高校日本史の講義を紹介し、そのあと北村透谷の作品と人生に触れていきましょう。

 1874年、国会の開設を要求する建白書が政府に提出されました。いわゆる「民撰議院設立建白書」であり、これが自由民権運動の始まりとされています。提出したのは板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の前参議4名に、古沢滋・岡本健三郎・小室信夫・由利公正を加えた8名でした。建白書を起草したのは古沢であり、政府の「有司専制」、つまり一部の官僚による専制政治を批判する内容でした。背景には、明治維新の理念である天皇親政、さらに五箇条の誓文で謳われた公議世論の尊重がともに踏みにじられているという認識がありました。また、納税者には参政権を与えるべきであり、参政権を与えてこそ人々の政治的への関心・知識も高まると主張しています。
 建白書提出の翌日、イギリス人ブラックが経営していた新聞『日新真事誌』に建白書全文が掲載されたことで、民撰議院論争に発展し、主に民撰議院設立の時期をめぐって多くの意見が飛び交いました。メディアの力によって自由民権運動が誕生したと言ってもよいでしょう。
 民権家の意識は国家機構の改革にあり、背後には強いナショナリズムがありました。よく「民権」が次第に「国権」に変節していくというような言い方がなされることがありますが、実際には「民権」の伸長によって「国権」が拡張すると認識していた人が多かったと考えるのが妥当でしょう。板垣らは愛国公党を結成していましたが、民意と国家を結ぶ「公党」が国家に必要な存在と捉えていました。この「公党」意識は、自分たちと異なる意見に対し、「私党」「偽党」というレッテルを貼って攻撃する方向に進む危険性をはらんでいました。民権運動の負の側面や思想的深みに欠ける部分などへの指摘はこれまで数多く見られました。一方で、近年では、戊辰戦争後に近世的身分社会が解体する中で、新しい社会秩序を求めるデモクラシーの動きとして自由民権運動を捉える研究もあります(松沢裕作『自由民権運動−〈デモクラシー〉の夢と挫折』岩波新書)。
 愛国公党は、メンバーの江藤新平が佐賀の乱に関わったこともあって自然消滅しますが、その後、板垣退助・片岡健吉を中心に高知県で結成された立志社など、各地で政社(政治結社)が結成され、1875年には政社の全国的連合組織である愛国社が大阪で設立されました。

 民権運動の高まりに対し、大久保利通は、台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允や、民権運動の中心人物である板垣退助と大阪会議を開きます。この結果、漸次立憲政体樹立の詔が出され、立憲制を漸進的に導入することが決定し、元老院(立法諮問機関)、大審院(最上級の裁判所)、地方官会議(全国の地方官を集めて地方の状況を政策に反映させるための会議)の設置も発表されました。木戸と板垣は参議に復帰します。その後、後藤象二郎も政府に復帰したことで、愛国社は目立った活動もないまま自然消滅のような状態になりました。
 しかし、政権に復帰した板垣は、立憲制樹立に向けて急進論を展開して大久保・木戸と対立し、すぐに参議を辞職してしまいました。その頃、西郷隆盛を擁する最大の士族反乱である西南戦争がおこっていました。西郷たちに呼応するかたちで挙兵すべきという意見もありましたが、西郷軍の戦況が悪化しつつあるのをみた板垣は、言論による国会開設の方針を決定します。1877年には立志社の片岡健吉らが国会開設を求める建白を提出し、政府に却下されますが、板垣の決断によって多くの民権運動家が残ることになりました。

 愛国社が再建され、自由民権運動が再び高揚する中、1880年には愛国社とは別に新たに大阪で国会期成同盟が結成されました。国会期成同盟が政府に提出した請願書の署名者は約8万7000人に達しました。
 1878年に三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)という地方制度の大改革がおこなわれていたこともあり、士族のみでなく、豪農や商工業者が民権運動に参加するようになっていました。政府は集会条例を公布し、政治結社や集会の届け出制、警察への集会解散権の付与、軍人・教員・生徒の政治活動禁止などを定めましたが、それでも民権運動の高揚をおさえることはできませんでした。
 運動が広がる過程において、各地で民間による憲法草案である「私擬憲法」が作成されています。例えば、植木枝盛が起草した「東洋大日本国国憲按」は、高野岩三郎や鈴木安蔵らの憲法研究会の憲法草案に影響を与え、その憲法研究会の憲法草案をGHQが高く評価し、憲法案の参考としています(古関彰一『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫)。植木枝盛は、自らを文明国と認識するヨーロッパ各国は他地域を野蛮とみなしているが、戦争をして奪い取るような行為こそが野蛮ではないかと主張し、西洋文明主義を相対化できる思想家でした。

 1881年、開拓使官有物払下げ事件が生じました。北海道の開拓使を廃止するにあたって、薩摩出身の開拓使長官黒田清隆は、官営事業を、開拓使官吏が設立を計画していた会社や、同じ薩摩出身の五代友厚らが経営する関西貿易社に、安い価格で払い下げようとしていました。そのことが新聞で報じられたことで、民権派の政府批判が高まりました。伊藤博文らは、国会の早期開設を主張していた大隈重信らが情報のリークに関与していると判断し、大隈らを政府から追放しました。それと同時に、世論をおさえるために、開拓使官有物払下げを中止し、1890年に国会を開設するという詔勅を出しています(国会開設の勅諭)。これら一連の出来事を「明治十四年の政変」と呼びます。
 その後、国会期成同盟を中心に自由党が結成されました。党首を板垣退助とし、フランス流の急進的自由主義を主張し、士族や豪農・商工業者らを支持基盤とする政党でした。また、大隈重信は、ともに政府を去った官僚やジャーナリストらを集めて立憲改進党を結成しました。イギリスをモデルとした議院内閣制をめざす漸進的立憲主義を主張し、都市の実業家や知識人を支持基盤とする政党でした。

 明治十四年の政変後、大蔵卿に就任した松方正義は、インフレによる貿易赤字の増大と国家財政の危機を乗り越えるために、軍事費以外の徹底した緊縮財政を実施し、デフレに誘導しました。物価が下がったことにより、米や繭を売って生計を立てている農民の収入は減ってしまいます。一方、地価は変わらないため、納税額は減りません。このため、多くの農民が土地を失って小作人に転落し、一部の地主への土地集中が進みました。
 松方財政は、自由民権運動に大きな影響を与えました。深刻な不況により、豪農の多くが政治運動に参加する経済的余裕を失っていき、運動の衰退につながりました。
 そのような状況下でも、政府の弾圧は強まっており、1882年には福島事件(福島・喜多方事件)がおこります。薩摩閥の三島通庸は自由党に強い敵意を持っていましたが、その三島が自由党の活動がさかんな福島県の県令となりました。三島は会津三方道路の建設計画において、地方税予算ではなく地元負担と国庫補助金に財源を求めました。さらに、国庫補助の認可が出る前から工事開始を命令し、住民に負担を要求したことで、反対運動が高まります。運動指導部を逮捕した警察に対し、数千人が集結して喜多方警察署を包囲すると、警官が抜刀して対抗し、負傷者が出ました。三島は、これを自由党の河野広中らによる政府転覆計画であるとし、河野らを逮捕しました。
 この時期、自由党の中央は混迷を深めていました。民権派の中で影響力のある板垣退助の穏健化をはかるため、政府は板垣退助を洋行させようとしました。結党後一年もたたない時期に党首が外遊を計画することに党内からの反発があり、さらに洋行費用の出所の情報が漏れると、反発はより大きくなります。外務卿の井上馨の働きかけにより三井が提供する資金、自由党支持者の土倉庄三郎なる人物が提供する資金の二つがありましたが、板垣自身は三井の話を知らず、意見が食い違いました。結局、板垣は洋行に出発しますが、これにより党中央部の分裂がおこってしまいました。板垣洋行問題では立憲改進党が自由党を批判しますが、自由党側は大隈重信が三菱と癒着しているとして、立憲改進党を「偽党」とするキャンペーンに力を注ぐようになっていきました。
 松方デフレによる不況、政府の厳しい弾圧などが重なり、自由党内には過激な意見が増えていきます。挙兵や暗殺により政府を打倒しようという急進論です。
 群馬県妙義山麓に農民と自由党員が集まり蜂起した「群馬事件」、茨城県加波山に福島・栃木・茨城の自由党員が集まり政府高官襲撃を計画した「加波山事件」、愛知県と長野県の自由党員が蜂起計画の発覚によって一斉に逮捕された「飯田事件」、名古屋の自由党員・博徒・都市下層民らが政府転覆のための資金調達を目的に連続強盗をおこなった「名古屋事件」、静岡県の自由党員が政府要人暗殺を計画した「静岡事件」などがあります。
 もともと民権派は、近世身分社会にかわる新しい国家機構を自分たちでつくることを考えていましたが、政府が新しい国家機構をつくろうとする中で周縁に追いやられ、同様に社会の秩序からこぼれ落ちようとしている人々と結びついていったのです。博徒などが中心となって強盗をおこなった名古屋事件などはその典型的な例と言えるかもしれません。
 あいつぐ激化事件に動揺したこともあって、自由党指導部は、1884年10月に解党を決議します。戊辰戦争の英雄であり、かつて暴力によって旧秩序を壊したことで名声を高めた板垣退助には、暴力を否定する論理がありませんでした。
 自由党解党の3日後、埼玉の秩父で農民蜂起が発生します。秩父は養蚕・製糸業がさかんな地域でしたが、松方デフレによる生糸価格急落により生活危機に直面し、多額の借金を背負う人が続出していました。蜂起勢は進軍途上の動員で膨れ上がっていきましたが、統一した方針でまとめあげる指導部は存在せず、政府が軍隊を派遣したこともあって鎮圧されました。

 国内での展望を見失った民権運動家が、対外進出に向かうこともありました。1885年、大井憲太郎や景山英子ら旧自由党の急進派の一部が、朝鮮に渡って政府首脳を殺害し、日本に亡命した金玉均らによる改革派政権をつくり上げ、日本と清国との間に緊張関係をつくり出し、その緊張を利用して国内で民権派が蜂起して政府を打倒する、という計画を立てていました。計画は露顕し、大阪などで逮捕されたことから、「大阪事件」と呼ばれます。
 一見して実現性の薄い計画です。金玉均の同志である自分たちが爆弾を使って朝鮮政府を倒せば、多くの朝鮮民衆は歓迎するはずだという、非現実的かつ自己中心的な思い込みがあり、そこには他国を見下す意識も垣間見え、連帯を掲げていながら実際には「侵略」に近いものでした。


 1868(明治元)年に誕生した北村透谷(本名は門太郎)は、1883年には自由民権運動に参加するようになったと考えられています。このとき透谷は15歳ですが、神奈川県議で三多摩自由党の領袖である石坂昌孝とその息子の公歴(まさつぐ)と知り合っています。公歴は透谷と同じ明治元年生まれでした。また、この年、透谷は東京専門学校(現・早稲田大学)の政治学科に入学しています。
 1883年といえば、福島事件の後であり、松方デフレの影響もあって、運動が衰退している時期です。ただ、神奈川県の自由党はよく党勢を維持して健闘していたようで、透谷らは希望を持ち得ていました。
 1884年になると、透谷は大矢正夫らと親交を深め、民権家としての意識が高まっていきます。大矢は透谷より5歳年長で、運動に対する態度は直接的で、全人格をかけた切実なものでした。民権運動期の透谷にとって大矢は最も重要な人物であると言えるでしょう。
 1885年、大矢正夫は、大井憲太郎らから朝鮮へ渡ってクーデターを引き起こす計画を打ち明けられました。さらに、海外へ渡る資金がないので、強盗を決行して資金を調達するよう要請されるのです。大矢は3度に及ぶ強盗計画を実行し、2度は失敗しましたが、3度目は生家から一里も離れていない座間入谷村の戸長役場をねらい、公金1071円余の強奪に成功しました。この大矢に同行させられた人物は、「大矢は顔色怒気を帯び、実に事極端に至り已むを得ず」と、抜刀などの手段で強引に迫られたと推測されるような陳述をしています。
 大矢は友人である透谷にもこの大事を打ち明け、協力を求めました。しかし、透谷は大阪事件の陰謀に違和感を抱き、大矢に強盗への不参加を告げました。髪を剃り、世捨て人の覚悟を示した姿であらわれ、許しを乞うています。この透谷の決断は、後から考えれば賢明な選択であったとみることもできますが、同志たちを裏切った自責の念から解放されることはありませんでした。

 1888年、透谷は数寄屋橋協会で洗礼を受け、同年、石坂昌孝の娘であるミナと結婚します。透谷は20歳、ミナは23歳でした。ミナはこの2年前に横浜の海岸教会で洗礼を受けており、キリスト教式の結婚でした。
 1889年、透谷は『楚囚之詩』を自費出版し、文学によって自己を世に問おうとしました。日本語で書かれた自由律の長編叙事詩としては最初のものとされ、文学史的には価値の高いものなのですが、自意識の強かった透谷はあまりに大胆すぎたと恥じて、すぐに本を回収してしまいました。
 全16節のうち最初の1節を以下に引用します。

  曽(か)つて誤つて法を破り
    政治の罪人として捕はれたり、
  余と生死を誓ひし壮士等の
    数多あるうちに余は其首領なり、
     中に、余が最愛の
     まだ蕾の花なる少女も、
     国の為とて諸共に
     この花婿も花嫁も。

 自由民権運動のかつての同志が大阪事件により刑務所に収監されたことなどが反映されています。透谷の早熟性、新しい言語への試みを見てとることができる作品です。さらに、政治小説への志向性ではなく、純文学的活動への意志を感じることができます。

 1892年、透谷が評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表すると、当時の文芸界に衝撃がもたらされ、これによって透谷は文学者としての地位を確立します。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ」という書き出しで始まる文章は、恋愛を遊戯のようなものとして軽んじる傾向にあった当時の知識人の常識からすれば、驚くべき内容だったでしょう。島崎藤村は小説『桜の実の熟する時』の中で、「これほど大胆に物を言った青年が其日までにあろうか。すくなくも自分等の言おうとして、まだ言い得ないでいることを、これほど大胆に言った人があろうか」と述べています。
 しかし、透谷は時代に衝撃を与えたものの、その思想は時代の制約を受けており、時代を超越した思想を獲得していたわけではありません。「厭世詩家と女性」には以下のような記述があります。

   女性は感情の動物なれば、愛するよりも、
  愛せらるゝが故に愛すること多きなり。愛
  を仕向けるよりも愛に酬ゆるこそ、其の正
  當の地位なれ。葛蘿(かつら)となりて幹
  に纏ひ夤(まつ)はるが如く男性に倚るも
  のなり、男性の一擧一動を以て喜憂となす
  者なり、男性の愛情の爲に左右せらるゝ者
  なり。

 明らかな女性差別の思想があると言えるでしょう。他の多くの男性と同じように、透谷も、男の仕事が優先であり、妻となった女は夫に尽くすべきだというような考え方でした。透谷にとって、石坂ミナは内面に生命を吹き込むような人格であったかもしれませんが、そんな透谷でも家父長制度を乗り越える自由な思想を獲得できてはいない点に注意する必要があります。

 1893年、ロマン主義の文芸雑誌『文學界』が創刊されます。島崎藤村、樋口一葉らが書いたことで知られていますが、初期は透谷の評論が中心的な位置を占めていました。『文學界』で発表された透谷の評論の中でも、「内部生命諭」は透谷の思想の核心が示されたものであり、近代文学の考え方に大きな影響を与えることになります。

   造化(ネーチュア)は人間を支配す、然れ
  ども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存
  する自由の精神は造化に黙従するを肯ぜざる
  なり。

 「造化」とは「宇宙の精神」「神の形の象顕」とされています。人間の自由が「造化」に黙従することを肯定しないとする透谷の主張からは、洗礼を受けた透谷がキリスト教の神の力に依存しようとはしていないことがわかります。キリスト教の恩恵よりも人間の自由の追求を重視し、肉体的生命よりも内面的生命における自由を重んじるために、透谷は文学に身を捧げようとします。
 しかし、透谷は評論によって文学の理想を示しつつも、その理想を実現した詩や小説を自ら書くことはできませんでした。1894年、透谷は25歳の若さで自宅の庭で縊死を遂げます。文学とは命をかけて取り組むほど崇高なものなのだと島崎藤村らが考えたことで、透谷の死はその後の文学に大きな影響を与えることになります。

 「政治」から離脱し、人間の内面を表現する「文学」に軸足を移していった北村透谷ですが、大阪事件後に社会への関心を失ったわけではありません。壮士らの横暴ぶりに義憤をおぼえることはありましたが、その一方で北多摩郡正義派を結成した吉野泰三に自ら書簡を送って接近しています。その吉野は、候補者指名を得るために対立していた派閥と妥協し、大井憲太郎らの再興自由党に参加するものの、その節操の無さを嫌われて結局北多摩正義派に戻るという迷走ぶりをみせることになります。
 「民党」優勢下で開かれ、わずかながら期待を抱いた第1回帝国議会は、民党の一部勢力が裏切り、近代を代表する思想家の一人である中江兆民が「無血虫の陳列場」と言い放つほどの惨状でした。
 透谷が死を選んだのは日清戦争前夜であり、国権論が高揚し、かつての自由民権運動家たちの多くは率先して戦争に協力し、排外主義とナショナリズムが社会を覆っていました。透谷の死について考えるとき、文学における苦悩が大きかったことは間違いないでしょうが、社会に敏感であった透谷がどのような社会状況で死を選んだかを考察することも重要ではないでしょうか。

 最後になりますが、僕が北村透谷に関心を持つようになったのは、色川大吉氏の影響です。北村透谷のことだけでなく、色川氏は僕の人生の分岐点に存在した人でもあります。10代のときに色川氏の『ある昭和史』を読み、講演会に足を運ばなければ、僕は近現代史や思想史を学び続けようと決断していなかったかもしれません。色川氏は2021年に亡くなりましたが、人生最後の著作のテーマに選んだのは水俣でした。
 水俣については、別の機会にゆっくり考えてみたいと思います。


主要参考文献
・『北村透谷選集』(岩波文庫)
・高校教科書『日本史探究』(実教出版)

・松沢裕作『自由民権運動−〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書)
・長谷川昇『博徒と自由民権−名古屋事件始末記』(平凡社ライブラリー)
・大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(日本近代の歴史2 吉川弘文館)
・牧原憲夫『民権と憲法』(シリーズ日本近現代史② 岩波新書)
・安在邦夫『自由民権運動史への招待』(吉田書店)
・色川大吉『自由民権』(岩波新書)
・色川大吉『明治精神史(上)』(岩波現代文庫)
・小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』(ちくま新書)
・山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【明治篇Ⅰ】』(ちくま新書)
・成田龍一『近現代日本史との対話【幕末・維新−戦前編】』(集英社新書)
・藤野裕子『民衆暴力』(中公新書)
・古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)
・島崎藤村『春』(岩波文庫)
・島崎藤村『桜の実の熟する時』(岩波文庫)
・桶谷秀昭『北村透谷』(ちくま学芸文庫)
・色川大吉『北村透谷』(東京大学出版会)

 

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