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「不安定」は悪か

メンタルが安定している。
生活が安定している。
体力が安定している。

それらは間違いなく良いことだろう。では逆に不安でいる事は悪い事なのか。その辺についてちょっと考える機会があったので記事を書いてみる。

突然の座禅体験

以前から座禅を勧められることがあったのだけれど、じっとしているのが苦手な自分は前のめりに興味を持つことができず。しかしそんな中12月に入り、町の至る所に寺院がある京都に一週間ほど滞在することになったことで「座禅」という言葉が自然と頭をよぎる。

軽い気持ちで調べてみると、滞在先のすぐ近くに座禅体験をやってる「両足院」というお寺があることがわかり、何かのご縁だと思い座禅を体験をしてきた。

鳥の鳴き声と工事音の違い

禅僧さんの自己体験のお話から始まり、正しい座り方や座禅のいろはを教えてもらう。その中で最初のステップとして、「音だけに意識を向けてみる時間」というものがあった。

小鳥の鳴声や風の音、工事の音。目を閉じて耳を済ますと、色々発見がある訳だがその中で

「小鳥の鳴声は心地よいと感じるのに、工事の音を雑音だと感じるのはなぜか」

という疑問に出会う。出会ったので考えみる。
なにしろ座禅は座ってるだけなので暇だ。

すると気付いたことが一つあった。それは鳥の声は不安定で、工事の音は安定しているということ。

小鳥の鳴き声は心地よい

安定と不安定について考える

鳥の声と言っても一羽一羽微妙に音色は違うし、「チュンチュン」と聞こえてくるその音の中に抑揚もある。一方工事の音は、「ガーーーー」とか「ダダダダダダ」とか電子的に組み込まれた規則正しいリズムと、決してそのルールから外れない音の連続だ。

それを雑音と感じない人もいるだろうし、あくまで主観の話。だけど仮にこれを「心地よさか否か」の定義とすると、人間は矛盾した生き物だなという思考に繋がる。

僕は飛行機に乗る時に窓の外を見るのが好きなのだが、雲が果てしなく続いてる光景はなかなか飽きることはない(個人的には)。ふわふわとした雲が延々と続いているだけなのだが、それは決して一定ではなく形や模様が違う不安定な景色。もしそれが全く同じ形の連続だったら、窓の外を見ていようという気になるだろうか。

飛行機は窓側が好き


一方で、人間は楽な生き方を常に考えているので、ルール化すること、安定した仕組みを作ること、統一化すること、フォーマットを作ること、タイパやコスパ。その辺の言葉が大好きだ。つまり、「安定」を目指す。


安定の先にある虚無
不安定の中に隠された希望

楽を求めて不安定なものを安定させることが使命かのように生きているのに、ルールが作られた世界が一度出来上がると何故か居心地の悪さを感じるようになる。居心地の悪さというより、すべきことが無くなったことによる虚無感のような感覚。この世界は色々なものがその繰り返しな気がする。

どっちが良いor悪いと言いたい訳じゃなくて、僕が思ったのは「不安定であること」はそんな悪いことではないんじゃないかということ。むしろ、安定的な世界の中では出会えない心地良さや希望もある。

(そのことは「暇と退屈の倫理学」と言う本を最近読んで感じたことでもあり、同じ理屈に倣って先日のNewsPicksの記事も書いている)

「ルール化すること」
「安定した仕組みを作ること」
「統一化すること」

その行為自体に囚われすぎていて、不安定であることを嫌う習慣が優先されている時代だなと感じる。決して客観的な話としてだけでなく、「無駄を作らず安定感を意識する」という作業はデザイナーという仕事上常に意識していることでもあるので、果たしてそれでいいのかという自分への問いにもなる。
アーティストというもう一方の自分の個性で、心地よさや心揺さぶる表現を目指さねばならないとも思う。

おわり

…ここまできて、ようやく気づく。鳥の鳴き声を聞いていただだけだったのに、そもそも座禅中だったのに、まためんどくさいことを色々考えてしまったと。話も相当飛躍してしまっている。

でも教えてくださった禅僧さんが言っていた。どんな思いが頭に浮かんでもそれが自分だと観察して認めることが大切だと。

そんなわけで座禅をすると、つい安定と不安定について考えてしまう自分を認めてあげることにした。

以上、初めての座禅レポートでした。


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