あの時、意味なんてあったのか。
今日、久しぶりに梨の皮をむいた。
梨は旬の時期にしか食べないから、おそらく1年ぶり。
自分で買ったわけではなく、母からもらったものだけれど、やっぱり食べてみると瑞々しくて甘くて美味しい。
見た目が同じような林檎よりもはるかに好きだ。
そんな皮剥きをしていると、ふと思い出した。
小学生だったか中学生だったか。
とにかく学徒だったときに家庭科の授業で、林檎の皮剥き大会なるものが開催された。
林檎の皮をできるだけ長く繋いだまま剥くというゲームだ。
僕はそれまでほとんど包丁を持ったこともないし、家で事前に練習するほど興味もなかったけれど、なぜかその時は夢中になった。
そして、結果は案の定、たった数センチで皮は途切れてしまい、優勝はおろか、クラス内の順位下から数えた方が早い部類にいた。
その時「こんな大会に何の意味があるんだ?」なんてことを考えたけど、こうして15年以上経っていても記憶に残るほど、僕の中には何かが残っていたみたいだ。
それは、悔しさだったのかもしれない。
それは、悲しさだったのかもしれない。
それは、怒りだったのかもしれない。
とにかくネガティブなことばかり考えていたと思う。
だからこそ記憶に残っていたのかもしれない。
でも、大会にはとくに意味はなかったけれど、記憶に残るほど「林檎の皮剥き」という行為は鮮明に残っている。
あれがあったから、梨の皮剥きにとどまらず、大根やじゃがいもの皮剥きだってできるようになったし、今しっかりと包丁を握って料理ができているのかもしれない。
もしかすると、特にそんなものは必要なかったのかもしれない。
けれど、何が人生を左右するかわからない。
今日行った小さなことが、いつか偉大なことにつながるかもしれない。
「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」
なんて言葉もあるくらいだ。
人生、何があるかわからない。
「こんなの、意味あるのか?」
なんて思っていても、とにかくやってみよう。
やってみると、数年後、十数年後にふと得るものがあるかもしれないから。
こうしてnoteを書いていること自体、「意味あんのかな?」なんて思うけれど、今日も思ったことを綴る。
いつか見返した時に「意味あったなぁ」なんて言えるように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?