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平成時代さえ誤解する現代人に、昭和とか戦前を正しく理解できるわけがないだろう

今でこそ東京圏を代表する鉄道路線である横浜線は、東京都八王子市と神奈川県横浜市を結ぶ、れっきとした通勤路線である。しかし、その平成初期の風景はまるで東武野田線の大宮・船橋寄り区間や武蔵野線沿線の風景そのものだ。1990年代の横浜線の車窓動画がYoutubeにある。
1990年代というと、それこそ今より国力や景気がましだったと言うイメージで語られがちだ。貧乏人は舐められるのスローガンのごとく人々が豊かさを追求していった。そんな印象は、平成生まれ世代にも共通しているものだ。

だが、本当にそうだったのだろうか。私はどうも、これは「偽りの歴史認識」だったように思う。
横浜線だけではない。隣接路線で言うならば横浜市営地下鉄ブルーラインといった路線も、1990年代には「未開発地域を走る郊外路線丸出し」だったのである。

ちなみに両親によると私は1990年代には3LDKの公団住宅に住んでいたという。当時はバブル期の名残のあった時代だが、平凡な新社会人には今の中流か庶民程度の生活をするのが限界で、それでも「家賃安いけど買い物に困らない!」ということで家から最寄り駅までの交通費を犠牲にして住んでいたという。バブル期は裕福さを競っていたと言うイメージは、それが当時の普通なのではなく、一流私立サラブレッドのボンでもない限り手に入れられない理想であったからこそ強く刻まれたものであるのではないだろうか。

平成時代の若者は平等に親依存で普通・オタク・ヤンキー・ギャル・金持ち・貧乏人のいずれかのパターンに集約されるのが普通だ。
まるで今のしっかりした都市のしっかりした学校にみられる生徒状況みたいな面子である。そりゃあ30年時間が止まったような国のなれの果ての姿なのだから当たり前である。
古くはオタクとは一部の勝ち組がはまる趣味の属性であった。私たちが学校社会の負け組として想像するイメージはおそらくマンガやドラマで広まったのであろうが、オタクを見下す風潮は1990年代に流行ったのみで、だから昭和期から歴史が続いているのだ。
最近のオタクはリア充へのコンプレックスだろうか車バイクの文化やアウトドアにはまる風潮がある。これはある種過激な理想主義だ。みんな、昭和期に比べればかなり社会的地位は高い、世間で広まっているリア充なんて決して多くない。

当時を生きた世代すらカン違いすることのある「ありのままの日常」と「常に理想を映すメディア」のズレを考慮する必要がある。

だが、マンガやアニメの「東京卍リベンジャーズ」が1990年代的ステレオタイプのヤンキーを賛美し、「SPY×FAMILY」がWW2や冷戦時のスパイを賛美し、映画やドラマなどを含めたあらゆるコンテンツがゆがめられた認識をもとに昔を美化する今のような時代には、そういうことはなかなかハードルが高くなっている。
よく考えてほしい。戦後昭和から2010年代前半まで「昔よりも今、そして未来!」と言う発想が支配的だった。過去を懐古するのはどの世代を通じても前向きにやらない部類だけで、多くの国民はWW2や冷戦期は「終わった過去の時代」と考え、ヤンキーについては昔の暗い歴史だと考えていた。頭ごなしに古いものすべてを否定するのもどうかと思うが、当時と比べて今は「文化としての歴史修正主義」に固執して、古典的常識にとらわれて、新しいことや異なることや珍しいことを敬遠する人間があまりに目立つ。この狂った時代風潮は、一時期日本を戦前回帰させかけてしまった。

考えてみれば戦前や戦後のイケイケだったころの日本社会とは、つまるところ「日本に世界の最先端の国を作っちゃう精神」に尽きる出来そこないの先進国だった。
日本人は一時期を除いて他国から文明を受け入れてきたため、日本より上の国に憧れがあった。江戸時代の末期に明治維新をなしとげて「近代国家」を確立させたのが戦前の日本だ。イギリスやアメリカの後追いをしているうちにかつて憧れていた中国を上回る国力を有し、今の中国の東北部に「国」を作ったもが「満州国」だった。そこには欧米列強の猿真似による都市「新京」を作った。中国のスタイルを完全に否定し、前時代なものとして日本の伝統も自己否定しながら、日本的に解釈した欧米近代モダンで塗り固めた張りぼてテーマパークのような都市である。思えば戦後のイケイケの時期だって社会主義を土台に西欧やアメリカの資本主義を持ち込むテーマパークのような国家だった。
そんな張りぼての存在はあっという間に消えることになる。体育会系やブラック企業みたいな感じで力づくで進めたゆがんだ豊かさが限界を迎え、日本が第二次世界大戦に敗北するとともに満州国は滅んでしまい、バブル崩壊後に世界最先端と肩を並べる日本も滅び、またたくまに「当時の名残」は中国の風景から、日本の光景から消えていった。いまではわずかな名残しか残っていない。

 一方上海では、外灘地域に行けばほんものの欧米列強の作ったビルが今もたくさん残っている。ここはニューヨークかと見まごうような感じだ。どれも日本のそれと比べ高層で、骨組みがごっつくて、エントランスが荘厳で、屋根が洒落ていて「遊び」があったりして存在感がとにかくずっしりしていて、ペラペラの先進国気取りとはくらべもののにならない感じがある。こんなに立派だから、欧米の自由主義と相反する中共だというのに未だに残っているのである。よく考えれば鉄道とかのインフラも戦前からあるものなんかは一部を除いて多少変えつつも健在だ。
今の日本の大衆ネット社会を見てほしい。
ほとんどの人がみな、日本の不都合な歴史や過激な思想や反社会的な思想を厳しく認識している。参政党や鈴木傾域とかの行き過ぎた愛国イデオロギーに目がくらむような人たちと一緒になっちゃだめだ。できればだいたいのイケイケな若者を見てほしい。そんな地域だって、東リベだのSPY×FAMILYで昔を賛美なんてしていないのが現実だ。●走族とか●クザとか●グレとか20世紀のス●゜イ戦争のような暗い歴史だってあり、そういう過去の日本や外国の罪や愚かさを厳しく批判した上で、文化国家の文化市民として生活し、何十年間しっかりやってきた自分自身が日本とか外国とかたまたま反社やスパイを題材にしているに過ぎないマンガやその著者をリスペクトしているわけである。そういう尊重意識や友好感情に泥を塗るのが、ネオナチや共産主義と表裏一体のネット上にいる行き過ぎた人たちである。

私は2000~2010年代世代のオタクなので、アニメや漫画やゲームに触れられることに生きがいを感じるし、多様なゲームのプラットフォームに触れられる環境も好きだし、ドラマや映画も大好きだが、でも外国にせよ日本にせよその夜にある概念のすべてが立派とは思えない。ダメなものは劣ってる。この事実を認めたらどうだ。
外国にある日本より優れたものを受け入れるアイディアを「欧米的だ」とみなして否定し、「日本は違う、日本社会は日本らしくあるものだ」とゴリ押ししていた人たちも、最近はやっとアメリカや中国以外の国に抜かれて目を覚ましたのはいいが、それを全力でアジアや女性や子供や動物や自然や科学への軽蔑と一体化したイデオロギーに走っているから、本当にしょうがない。歴史的な揺ぎ無い事実を持ち出し、「だから科学は神の前にひれ伏さなければならない」という負の現実を維持したいのが彼らの魂胆であり、それが肯定的に作用すると「昔の日本の学生はエネルギッシュだった」幻想になり、否定的になると「先人がお前らを裕福にさせてやったのになぜ若者は貧しい暮らしにあこがれるんだ」になるのだ。2020年代の人間に相応しくない前時代的な発想だ。
こういう負の連中と同化したくなければ、「平成時代さえ誤解する現代人」にならないほうがいい。


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