「薬は毒」 ~私が薬を好まない理由~


 みなさんは、を飲んだりことがありますか?

 飲む以外にも、塗ったり、貼ったり、注射したり、世の中には色んなタイプの薬があると思います。

 病院に行って、お医者さんから処方箋を貰わなくても。
 ドラッグストアなどに行けば、“かぜ薬”や“頭痛薬”、“胃腸薬”、“かゆみ止め”などなど、色んな薬が所せましと並んでいて、誰でも自由に買うことができると思います。

 少しでも体調が悪くなれば薬に頼る、むしろ毎日なにかしらの薬を服用している。
 そんな方も多いのではないでしょうか。

 みなんさんは、そんな身近な存在であるをどう思っています?

 便利なもの? 必要なもの? ありがたいもの?

 どれも正解でしょう。
 きっと、人の数だけ薬との関係があって、感じ方や向き合い方があるに違いないと思います。


 でも、私は――。

 私は、「薬は毒」だと思っています。

 私は中学生の頃くらいからこの言葉を掲げて、二十七歳の今日まで生きてきました。
 きっと、これからも私はこの言葉を掲げて生きていくことでしょう。

 もう長いこと、他人ひとより薬を飲まずに生きてきたと思います。そんな生き方も、基本的に変えることはないでしょう。

 そんな私の思いを、ここに吐き出したいなと思います。


 もちろん、私は医者や医学者などではありません。
 医学の心得のない、完全な素人です。

 それどころか、無知で無学で無教養に富んだ高卒アルバイトです。

 この記事は、そんな私が個人的に思っていることを吐き出したものでしかないということを、まず始めに申し上げておきたいなと思います。



0.薬の苦い記憶


 私が生まれた時の身長は48.5cm、体重は2,584g。
 予定より早く胎外へと出てきた私の体重は軽く、あと八十四グラム小さければ低出生体重児だったそうです。

 体重はほどなくしてかなり増え、丸っこい幼児に育ったようですが、あいかわらず体は弱く病気がちで。
 よく風邪をひくだけでなく、“小児喘息”や“アトピー性皮膚炎”もあり、病弱な幼少期を過ごしました。

 そんな幼少期の記憶として染みついているのが、の記憶です。

 苦くて不味い薬を毎日いくつも飲まされるのが、とても嫌で、大泣きしては飲んだり飲まなかったりした記憶があります。
 母親もお医者さんと相談した上で、ジュースに混ぜてくれたり、オブラートやゼリーを試したり、工夫はしてくれましたが……。

 私は薬を飲むのが本当に嫌で嫌で仕方がなくて、泣きながら薬を飲んだり飲まなかったりした苦い記憶は、朧気で断片的ですが、今でも強烈に残っています。

 この、刷り込まれた嫌悪は、「薬は毒」という言葉を選び掲げている理由の一つであるように感じられます。
 「理屈や意志ではどうにもしがたい嫌悪」として、しっかり私の中に刻まれているのです。


薬の要らなかった記憶


 そんなこんなで病弱な幼少期を過ごしていた私ですが、小学校に上がって大きく状況が変わりました。
 “小児喘息”や“アトピー性皮膚炎”が一気に落ち着いていき、風邪も滅多にひかなくなったのです。

 それまで住んでいた、日当たりの悪い家から引っ越したこと。
 体の成長、生活や気持ちの変化、そして服装が変わったことも影響したのかもしれません。

 風邪をひくことは滅多になくなり、年に一度、熱を出すことがあるかないかという程度にまで減りました。
 それも、ただ一日寝てればほぼ全快という変わりようです。

 たしか、小学2年生の時(1年生だったかも)。
 インフルエンザにかかった際、父親が少し遠くの病院まで薬を取りに行ってくれたのですが、大泣きして頑なに飲まず。
 結局、泣きつかれて寝てしまった私は、翌日に目を覚ますと平熱になっていたことを覚えています。

 そんな免疫力や自己治癒能力の高さは今日に至るまで健在で、先日ついにCOVID-19(通称、新型コロナウイルス感染症)に感染してしまいましたが、ここ数年は風邪やインフルエンザにもかかっていませんでした。

 痩せ型で疲労がとれず、ノドや鼻まわりが弱く、肌荒れや腰痛もあり、働くようになってから顕著に出始めた睡眠障害や胃の不調が近年次つぎと悪化していて、体そのものは決して強くないのですが……。
 むしろそれだけの体の弱さでありながら、滅多に風邪などにかからないというのは、かなりの免疫力の高さなんじゃないかと思っています。

 この、薬がほとんど不要だった記憶や自負も、私の薬や自分が医療を受けることへの嫌悪を強めた要因だと思っています。
 私の人生において薬はほぼほぼ、不味くて高くてそのくせ飲んでもよくならないもの、だったのですから……。
 ずっと、ずっと、今だって大概は……。


1.副作用


 そもそもとはなんなのでしょうか?

 私は、ここで言う薬とは「ヒトの体に外側から入って、生理的な作用をもたらす化学物質」の一種なんじゃないかなと思っています。
 その中で、さらに「健康の助けとして使うもの」「薬」というのだと、ざっくりですがそんな風に考えています。

 では逆に、とはなんでしょう?

 これもまた、「ヒトの体に外側から入って、生理的な作用をもたらす化学物質」というのが、ここで言う毒の大枠の定義になると思います。
 その中で、「健康を害するもの」「毒」というのだと、これまたざっくりですがそんな風に考えています。

 つまり、は本質的には同じもので、その内「健康の助けとして使うもの」「薬」と呼び、「健康を害するもの」「毒」と呼ぶ。
 というのが、私の大まかな考えになります。


 しかし、薬には「副作用」というものがあると思います。
 これを私は、「薬の望ましくない作用」のことだと理解しています。

 この世の中に存在する物質も、この世の中の法則も、もちろんヒトの体も、全てが人間の都合で決められているわけではありませんよね?
 それは、薬も例外ではないはずです。

 健康の助けとして使う薬であったとしても、そう都合よく体にいい作用だけをもたらしてくれるとは限りません。
 そして、このような都合の悪い作用は、基本的にどの薬にも、多かれ少なかれ見られるものだと思います。
 これを「副作用」というのだと、私は理解しています。

 最近注目を集めている“ワクチン”、すなわち予防薬の「副反応」も似たようなものですね。
 こちらは薬そのものがもたらす作用ではなく、薬に対する体の反応を指す言葉だと理解していますが。

 いずれにせよ、薬には望ましくない部分があるはずです。
 すなわち、「健康を害するもの」という面があると思うのです。

 つまり、「薬は毒」というのが私の基本的な考え方です。


2.免疫と自然治癒力


 ヒトの体には、免疫自然治癒力というものが備わっていると思います。

 「免疫」とは、ヒトの体にとって害になる細菌や化学物質などが体に入って入ってしまった時に、それを排除する仕組みのことだと私は理解しています。
 “白血球” や “抗体” などの細胞的なものというイメージが強いんじゃないかなと思いますが、“皮脂” や “消化液” のほか、“汗” や “涙” なんかも免疫としての側面があると思います。

 そして「自然治癒力」は、免疫と重なる部分もあると思いますが、病気や怪我などを体の機能だけで自然に治す力のことだと私は理解しています。
 ヒトがお猿さんから進化を経て今日に至るまでの間、ずっと薬を使ってきたわけではなかったはずです。それでも、ここまでヒトが子孫を残してこれたのは、この自然治癒力があるからにほかならないでしょう。

 しかし、これらの機能は完璧ではないとも思っています。
 ほぼすべての野生動物が基本的に薬を使っていないことを考えれば、薬を使わなくても種の存続は可能なのでしょう。
 しかし、個体レベルで見ると、自然界で子孫を残すことができる個体はほんの一握りで、それよりも前に命を落としてしまう個体がたくさんいると思います。
 その理由は様ざまだとは思いますが、病気や怪我というのも大きな理由として挙げられるでしょう。

 だからこそ、ヒトは発展していく過程で、薬を使い生存率を高めてきたのだと思います。

 つまり何が言いたいかというと。
 まず、前提として「ヒトには病気や怪我などを体の機能だけで自然に治す機能が備わっている」ということ。
 その上で、「自然に備わっている機能だけでは不安定(≒不充分)なので、薬を使っている」ということ。
 ――それが私の考えであり、ここで述べたかったことです。


結論①:「薬は毒」の続き


 ここまでの話をまとめると――。

①「薬」の定義(今回)
 ヒトの体に外側から入って、生理的な作用をもたらす化学物質の内、健康の助けとして使うもの。

②「薬は毒」

 副作用がある≒健康を害するものという面がある。

③免疫と自然治癒力
 ヒトには病気や怪我を自然に治す機能が備わっている。

④薬を使う理由
 自然に備わっている機能だけでは不安定(≒不充分)。

 ――ということになると思います。

 この簡単な前提、いうなれば材料を用いて。
 ここからは、私の考えを丁寧に組み立てていきたいと思います。

 まず、ヒトには病気や怪我を自然に治す機能が備わっているので、それを使って自然に治すのが基本だと私は思っています。
 しかし、それだけではかなり不安定なので、薬を使って補助した方が安心だと思います。
 ただし、そもそも「薬は毒」であり健康を害する面(≒副作用)があることを意識しなくては危険だと思うのです。

 だから私は、薬は「使わずにすむのなら、それにこしたことはない」と思っています。
 それが私の、薬に対する基本的なスタンスです。


 薬は毒。
 使わずにすむのなら、それにこしたことはない。

木村直輝


 さて――。
 ここからはさらに結論を補足して、もう少し具体的なスタンスについて語っていきたいと思います。


3.機能低下(衰え)


 ヒトには色んな機能が備わっていると思います。
 先に挙げた“免疫”をはじめとする“自然治癒力”もそうですね。

 他にも、物をつかんだり歩いたりという“運動する機能”や、形を見たり音を聞いたりする“感じる機能”、感じたものを使って“考える機能”、それから心の健康を守る“防衛機制”なんて機能もあると思います。
 挙げればきりがありませんが、これらの機能を無意識的ないし意識的に使って、私たちヒトは日日を生きていると思います。

 ですが、これらの機能は使わないと基本的に衰えていくものだと思います。
 食べないと胃が縮む、病気で寝たきりの生活が続くと歩けなくなる、なんて話を聞いたことはないでしょうか?
 昔よく描いていたキャラクターの絵を久しぶりに描こうとしたら上手く描けなかったとか、試験前に頑張って覚えたことを久しぶりに思い出そうとしても思い出せない、なんて経験ならどうでしょう。
 心当たりがある方も多いのではないでしょうか?

 ヒトには限界があると思います。たくさんある機能を、全て最大限で維持し続けるのはとても難しいのでしょう。
 私たちが、スマートフォンの容量を空けるために使わないアプリを消したり、お金を節約するために利用していないサービスを解約したりするのと似たようなものだと思えば、わかりやすいのではないでしょうか?

(使わない全てのアプリを誰もが必ずすぐに消すわけではないように、衰えにも色んな差異があるとは思います。ヒトは複雑ですね……)

 そしてこれは、“免疫力”や“自然治癒力”も例外ではないはずです。
 薬にばかり頼っていると、“免疫力”や“自然治癒力”が低下するということは確かにあると思います。

 ただ、実際どれほど低下するのかと問われれば、一般的な薬を用法用量を守って使っている分には、あまり大きく低下しないのかなとは思います……。
 理屈としては衰えるはずですが、その影響が顕著に出ているという研究は聞いたことがありませんし、これに関して信頼性の高いデータを取ることは非常に難しいでしょう。

 そもそも前提として、“免疫力”や“自然治癒力”が薬で補える環境だから、機能を使う機会や度合いが減って衰えるわけですから、衰えても薬を使えばいいとも考えられます。
 老化による衰えなどと合わさって、長い目で見れば影響はある程度大きくなる可能性も考えられますが……。

 そもそも、ヒトは常に様ざまなものから影響を受けて生きているはずです。日光、水、食品、排気ガス、電波、医薬品、騒音、言葉、人間関係など、挙げればきりがありませんね。
 それら無数のものから影響を受けていることを考えれば、長い目で見た時に、一般的な薬を用法用量を守って使っている分には、“免疫力”や“自然治癒力”の低下が特別危険ということは考えにくいと思います。
 それよりも、他にもっと影響の大きいものがたくさんあるような気がします。

 ですから、一般的な薬を用法用量を守って使っている分には、それが大きな原因となって“免疫力”や“自然治癒力”を大幅に下げ、寿命が著しく縮むというようなことは考えにくいように思えます。
 なので、全く気にする必要はないとは思わないものの、そこまで気にする必要もまたない。と私は思います。

 もう少し具体的に、ざっくりと言うのなら――。
 「余裕があるなら心掛ける程度に気にするくらいがちょうどよく、他にもっと心配した方が有効なものがたくさんあるだろう。むしろ、過度な心配や下手な制限は余計に害になる」といった感じでしょうか。


4.薬への耐性


 前項では、「使わない機能は衰える」というお話をさせて頂きました。
 本項では逆に、「使う機能は高まる」というお話をさせて頂きたいと思います。

 運動をして体力や筋力をつけたり、勉強をして記憶を確かなものにしたり、何かを練習をして上手くなったり……。
 ヒトの機能は基本的に使えば高まっていくものだと思います。

 もちろん得意・不得意があるように、個人差はあるでしょう。
 例えば筋肉のつきやすい人・つきにくい人、記憶力のいい人・わるい人、というのはあるように感じますね。
 これは単純な個人の体質だけでなく、やり方や状況などの影響も大きいとは思いますが、なんにせよ、様ざまな影響が複雑に関与して差が出ることは確かだと思います。

 そして、薬に対する反応も、薬の種類や服用方法、体質などによる個人差は大いにあるとは思いますが、高まっていくことがあると私は理解しています。

 最も有名なのは違法薬物による興奮作用への耐性かと思いますが、他にも一部の睡眠導入剤(睡眠薬)による眠りを促す効果への耐性や、ヒトではなく細菌にできる抗生物質への耐性が比較的 有名な話かなと思います。

 ただこれは、ほとんどの一般的な薬に限って言えば、用法用量を守って服用している分には、ヒトに顕著な耐性ができるということはまずないようです。

 同じ食品を食べ続けていると耐性ができて、栄養を消化・吸収できなくなるというようなことは聞かないですよね?
 全ての薬で必ず耐性ができるわけではないというのも、これと同じ理屈だと思います。


 しかし、一般的な頭痛薬をはじめとした痛み止めでも耐性ができるという話を聞いたことがある、という方も多いでしょう。
 これに関しては、大抵は都市伝説や噂レベルの話だと私は感じています。なので、実際に実感を伴ってこれを信じているという場合、そのほとんどは勘違いで、別に原因があるのだろうと思います。

 これは恐らく、前述の違法薬物や抗生物質などに対する「薬の耐性」という言葉が独り歩きしてしまったことが、最大の要因かなと思います。

 また、頭痛薬に耐性ができると信じている方の中には、慢性的な頭痛に悩まされている頭痛持ちの方も多いんじゃないかなと思います。
 そのような方は、市販の頭痛薬を頻繁に飲んでいて、頭痛薬の効きづらさを実感していらっしゃるのでしょう。
 しかし、頭痛薬の成分などによっては、高頻度で飲み続けることで逆に頭痛を引き起こすことがあると言われています(薬物乱用頭痛)。
 これにより、頭痛薬の飲みすぎで頭痛を誘発して、それを頭痛薬に耐性ができたと勘違いしているというパターンもあるんじゃないかなと考えられます。

 そのような市販薬の乱用のみならず、頭痛の原因による薬の効きにくさや、体質による効きづらさ、服用のタイミングによる効きづらさなど、勘違いに拍車をかけている可能性のある要素はいくつも容易に想像できます。
 ヒトは経験から理論を組み立てて物事を信じる生き物だと思うので、不充分な知識と経験が合わされば、誤ったイメージが強固なものとなっていくことでしょう。

 イメージの力は絶大だと思います。
 精神的なストレスや思い込みで痛みを誘発したり、痛みに敏感になるということは科学的にも認められているはずです。

 逆に、特に効果のない偽物の薬を使っても、思い込みが何らかの影響を与えることがあるというのも科学的に認められていると思います(プラシーボ効果)。
 なので、薬の臨床試験(実際に薬を使って貰って効果を確かめること)では、ランダムで本当の薬と偽物の薬を使ってその結果を比べ、結果が本当に薬によるものなのかを確かめているはずです。
 イメージの力は絶大で、場合によっては大きな影響を及ぼすのです。

 イメージや経験などの複合的な要因によって、頭痛薬に耐性ができたと思い込んでしまっているパターンは非常に多いのかなと思われます。

 市販の痛み止めと一口に言っても種類はいくつかありますし、頭痛や生理痛には体質や生活習慣なども大きく影響していると思われます。
 また、頭痛薬に限りませんが、大前提としてほとんどの市販薬は一時的な不調に対して使うものであり、慢性的な不調を治療するために飲み続けることは想定されていないはずです。
 基本的に、症状が長引く場合や重たい場合は、病院を受診することが望ましいのです。

 特に頭痛持ちのような慢性的な症状に悩んでいらっしゃる方は、病院で診て貰うことをおすすめしたいです。
 原因や体質によって合う薬は違うはずで、それはプロのお医者さんといえども、一目でわかることではないはずです。
 なので、余裕のある内に病院を受診し、場合によってはトライ・アンド・エラー方式も取り入れ、様子を見ながら薬を変えて探ることも重要になってくると思います……。

 人間同士のやり取りなので、お医者さんとの合う合わないもあるでしょう。
 その辺りも含めて、早期の受診と長い目で見た治療をおすすめしたいと思います。
 どうせ際限なく市販薬で誤魔化し続けるくらいならば……。


結論②:個人的な考え


 私は「薬は毒」だと思っています。
 ですが、使うべきでないとまでは思っていません。

 前述した通り、個体レベルで健康に生きようと思うのならば、薬を全く使わないということは非常に不安定な(≒リスクの高い)ことだと思っているからです。
 その上で、それでもやっぱり「薬は毒」だから、「使わずにすむのなら、それにこしたことはない」と思っているのです。

 ただ、一般的に見て、私は恐らく他人ひとよりも薬を使いません。
 それは、私が他人ひとよりも高い免疫力と自己治癒力を持っていると、自分で思っているからです。
(染みついた嫌悪の影響もありますが……)

 もちろん、しっかりとした統計を取ってきたわけでも、検査によって特別な数値が出たわけでもないので、定量的に示された結論というわけではありません。
 経験、すなわち記憶に基づく主観による意識ではあります。

 しかし、実際に滅多に風邪をひかないことも、ひいてもすぐに治るということも体験してきており、他人ひとよりも薬を飲まずに生きてきたので。
 「使わずにすむのなら、それにこしたことはない」薬を、私は他人ひとよりも使わずに済むだろうという前提のもと、適宜 薬に頼るかどうかを判断しているのです。

 その前提があるからこそ、「免疫力と自己治癒力の維持」や「薬に耐性がつくことを防ぐ」という期待値の小さいものにも希望をいだいています。
 そのような期待を理由に数えるのも、あくまで他人ひとよりも薬を使わずに済むだろうという前提があってのことです。

 なので、私は滅多に薬を服用しないけれど、他人も同じようにするべきだとは微塵も思っていません。
 私が薬を滅多に使わなくても平気なのは、長年 薬をほとんど使わずに生きてきたからであり、これは元もとの体質や生活習慣などによるものだと思っています。
 なので、薬に慣れ親しんだ環境で生まれ育った普通の人が、私の真似をすることは非常にリスクが大きいと思います。

 薬を服用するかどうかを決める上で何より重要なことは、「病歴や治療歴(≒既往きおう歴)を踏まえた個人の体質と、現在の状況を考慮し、適宜 判断すること」だと私は思います。
 そして、その判断はお医者さんや薬剤師さんなど、医学的な知識をしっかり持った人に委ねるのが安定だろうと思っています。

 普段からできるだけ同じ病院を利用するようにし、体長に不安があれば早めに受診する習慣をつけておくと、既往歴やお医者さんへの信頼関係が築けて安心ですね。
(私はその辺りも乏しい生き方をしてきました)

 なので、私自身は薬を使わず病院にも滅多に行きませんが、それに比べると、他人ひとには薬を使うことや病院に行くことをすすめる傾向があると感じます。

 「薬を使うことは正しいか間違いか」という絶対的な結論を出し、それを常になぞるのではなく、知識と観察をもとにそのつど判断すること。
 それが、私は大切だと思います。


例.発熱時の基準


 ここで、具体例として、私が発熱時に薬を服用するかどうかを決める判断基準を書いておこうと思います。
 あくまでも素人の判断であるということをご留意 頂きたいなと思います。

 まず、私は基本的に、「発熱」という症状自体は特に治療をするべきものだとは考えていません。

 そもそも発熱「体温を上げることで、体の免疫機能を高めるための反応」だと、私は理解しています。
 免疫細胞などの働きは、発熱時くらいの体温の方が高まるので、病原菌などに感染した際には体温を上げる反応がみられるというのが、ざっくりとした私の理解です。
 また、平熱くらいの体温を好む病原菌の増殖を抑えるため、それらにとって好ましくない高温状態を維持しているというのもあるでしょう。

 なので、発熱そのものは特に悪い病気ではなく、むしろ体を守るための反応なので、基本的には熱を下げる必要もないと思っています。

 ですが、発熱時は普段よりも高い体温を維持しているため、体力が非常に奪われると思います。当然、体に負担もかかるでしょう。
 また、体温が高いと汗をかくので、水分や塩分の消費も激しくなると思います。
 さらに、病気の諸症状がある中で、負担が大きく普段と違う状態になれば、酷い苦痛を感じることも自然だと思います。

 なので、発熱時には安静にして、しっかりとした水分補給をすることが大事だと思っています。
 また、苦痛をやわらげるために冷やすことも有効だと思いますし、耐えきれない場合には解熱剤を服用して体温を下げるという選択もあると思います。
 しかし、発熱のよくない点を踏まえて注意をしていれば、基本的には率先して下げるべきものだとは思いません。

 ただし、子供やお年寄りや持病のある方だと、発熱による負担が大きな悪影響につながる場合もあると思いますし、体温調節機能が上手く働かない場合もあると思うので、解熱剤を服用して早く体温を下げた方がよい場合もあると思っています。
 また、発熱の症状が見られる病気として最も多いのは風邪だと思いますが、他にも危険な病気が数多くあると思うので、全体的な症状やその経過には充分 注意が必要だと思います。

 でも「高熱を出すと脳にダメージがある」なんて話を聞いたことがあるけど? という方も多いでしょう。
 もちろん、体温が上がり過ぎれば危険だとは思います。
 ただ、具体的に何度以上が危険という明確なデータはなかなか見ることができず(現実問題そんなデータをとるのは難しいでしょう)、私はだいたい41℃くらいから危険になっていくのではないかなというイメージでいます。

 ただ、一般的な風邪やインフルエンザなどでそこまで体温が上がることはまずないと思います。
 発熱そのものは体を守るための正常な機能なので、基本的に致命的な害があるレベルまでは発熱しないというのは、自然なことのように感じられます。
 なので、やはり基本的には率先して下げるべきものだとは思いません。

 まとめると、こんな感じでしょうか?

①「発熱」とは
 体温を上げることで、体の免疫機能を高めるための反応。
→基本的には、解熱の必要はない。

②「発熱」のデメリット
 体力の消耗が激しい。
 水分の消費が激しい。
 苦痛を伴う場合がある。
→これらへの対処は必要。
(安静、水分補給、冷却など。解熱も選択肢の一つ)

※老化や持病などと合わさると危険なこともある
※危険な病気の可能性もある

・危険な高熱
 41℃くらいから徐じょに?
(根拠の乏しいイメージ)
→普通そこまで上がることはない

 以上のことを踏まえて、私は以下のような基本の基準を設けています。

①40℃に達したら解熱剤を服用する
②それ以下でも苦痛が耐え難ければ解熱剤を服用する

 危険というイメージのある41℃に対し、少し余裕をもって40℃に達したら解熱剤を服用するというのが一つ目の基準です。
 常に体温を確認し続けるわけにもいかず、強い発熱がみられる場合には寝ている時間が長いことも多いので、体温の上昇を自覚することも難しいと思われるので、余裕をもって対処しようというのが主な理由です。

 しかし、経験則では大体39℃台くらいで苦痛が耐え難くなるので、苦痛の度合いなどをみて、40℃未満でも服用するようにしています。
 具体的には、同時に出ている体の痛みなどの症状が悪化するほか、私の場合は慢性的な腰痛や嘔気、息苦しさなどが猛烈に強まったりします。

 また、このような基準を設けてはいますが。
 例えば、細菌・ウイルス性の急性胃腸炎の疑いが高い場合には、薬の服用より排泄と水分補給を重視するなど、症状などに合わせた柔軟な判断を想定しています。


 長長と語ってしまいましたが――。
 「薬は毒。使わずにすむのなら、それにこしたことはない。」という考えを持ち、他人ひとよりも自己治癒能力が高いと自負している私でも、適宜 判断して薬を服用しているというお話でした。

(そろそろ30歳になりますし、慢性的な不調も悪化しているので、より判断が重要になっていると感じています。)


5.用法用量の重要性


 「薬は毒」という表現は、薬の危険性をかなり強調した表現のように思えます。

 私がこの表現を好んでいることには、幼少期に刷り込まれた薬への嫌悪が大きく関与しているだろうというお話は、最初にさせて頂きました。
 しかし、もう一つ。もうちょっと論理的な理由があります。


 私たちにとって、はとても身近なものだと思います。

 病院に行って、お医者さんから処方箋を貰わなくても。
 ドラッグストアなどに行けば、“かぜ薬”や“頭痛薬”、“胃腸薬”、“かゆみ止め”などなど、色んな薬が所せましと並んでいて、誰でも自由に買うことができると思います。

 そんな現代、とりわけこの日本では、薬の便利さや安全性が比較的に高いため、一般的に病気や怪我には薬を使うものという意識が非常に強いように感じられます。
 わざわざ病院に行って何も薬を出して貰えないと、本当にちゃんとみて貰えたのか疑わしく感じる、という方も多いのではないでしょうか?

 これほどまでに薬の安全性と信頼が築かれ、なおかつ身近な物にすることができたのは、何百年もかけてたくさんの人が努力を積み重ねてきた結果だと思います。
 それは、もちろん素敵なことだと思います。これからも、そんな社会が続いて発展していけばいいなとさえ思います。

 しかし、「物事は往往にして一長一短」だと思います。
 薬が過度に信頼され身近にある現代には、大事に至るケースは少ないものの、潜在的かつ重大な危険が無数にあふれているように思えるのです。

 みなさんは市販薬を買って使う時、一緒に入っている説明書のようなものを読まれるでしょうか?
 多くの方は、初めて服用する薬であっても、ほとんどもしくは全く読まれないのではないかと思います。

 もちろん、ああいうものを読むのは面倒だと思います。
 私は、複数のサイトで薬の詳細を調べてから服用することが多いですが。
 そんな私でも、アプリゲームを遊ぶ際やポイントカードの登録をする際、利用規約を隅から隅まで読まないことは多いですし、気持ちはとても察することができます。

 ただし、「説明をしっかり読まない行為にはリスクがある」ということは、常に意識しておいた方がよいと強く思います。

 「薬は毒」です。
 薬を使うということは、比喩ではなく「毒を以て毒を制す」行為と言えるでしょう。
 そこには少なからず危険を伴うはずで、注意をすることは必要だと思います。

 例えば日本には、「医薬品副作用被害救済制度」や「予防接種健康被害救済制度」というものがあると思いますが。
 これは、医療ミスによる被害者を対象とした制度ではないと、私は理解しています。つまり、ミスがなくとも被害が出るということなのだと受け止めています。
 「医薬品は100%安全なものではない」のです。

 確率の問題で言えば、基本的に用法用量を守って服用していれば、重大な健康被害が起こることはまず100%に近い確率でありえないでしょう。
 厳しい臨床試験の末に、統計的に優位な結果が出たからこそ薬は使用を認可され、その効果に応じて販売されているのですから当然だと思います。
 しかし、それはあくまでも100%に近い確率でしかなく、100%ではないのです。絶対ではありません。

 具体的な例を挙げれば、2007年から2011年の5年間で、一般用医薬品(≒市販薬)による副作用が疑われる報告が1220例あり、内死亡は24例、後遺症が15例という厚生労働省の調査結果 (PDF)を見たことがあります。
(報告数はあくまで副作用が疑われる報告の数であり、断定されていないものも含む) 

 それでも、そのわずかなリスクよりも、今正に苦しんでいる病気による危険の方が大きかったり、感染してしまうリスクや感染してしまった際のリスクの方が大きかったりすると判断されて、薬を使った方がいいと考えられるわけです。

 用法用量を守っていてもリスクがある薬を、用法用量を守らずに使用すれば、そのリスクはより高まるでしょう。
 自分で判断する知識や余裕がなくても、お医者さんや薬剤師さんの説明をしっかりと聞き、場合によっては質問をすること。
 そして何より、危険であるという意識を、頭の片隅にでも置いておくことは重要だと思います。

 何度も言いますが、「薬は毒」です。
 薬を使うということは、「毒を以て毒を制す」行為なのです。

 もちろん、薬を恐れすぎて逆に健康を害してしまっては本末転倒だとは思います。
 しかし、同時に、薬を信頼しすぎて適当に扱ってしまうこともまた非常に危険であると私は強く思っています。

 安易で過度な信頼が裏切られた時、それが安易で過度な不信感へと変貌することは、世の中にありふれていると思います。
 薬への信頼を守るためにも、薬が危険なものであるという意識は、大事なものだと思います。

 何百年も脈脈と受け継がれてきた多くの方達の努力により、薬の安全と信頼が高く築かれ、薬が身近なものとなっている今の社会は、とても素敵だと思います。
 そのますますの発展や改善を、私も心から願っています。

 だからこそ、全体としては(身近な)薬への信頼が根強いように感じられる今の社会で、私は薬の危険性を重視した「薬は毒」という言葉を好んで選んでいます。
 もちろん、薬への不信感が強い人を前にした時、その状況や目的などに応じて言葉の選び方を変えることはあると思いますが……。

 薬は毒。
 使わずにすむのなら、それにこしたことはない。

 ――その基本的な考え、スタンスは変わりません。


おわりに


 読んで下さり、ありがとうございます。
 不快でしたら、申し訳ございません。

 薬は、ヒトの安定した健康と生存のために、今や欠かせないものだと思います。
 しかし、「物事は往往にして一長一短」だと思うのです。
 それは薬も例外ではなく、副作用や副反応といった危険が常につきまとっているはずです。
 そしてその危険は、時に命を脅かすことさえもあるはずです。

 そんな、欠かせないほど役に立つけれど危険な毒である薬と、みんなが上手くつきあっていければいいなと思います。

 私は「ヒトは個体差の最も大きい生物」なのではないかと思っています。
 ヒトの性質とは、個人的な体質などの遺伝的要因と、常に変化する環境的要因によって決まる、複雑で絶え間なく変わっていくものでしょう。

 だから、薬の使用を含めた物事は、様ざまなことを考慮して「適宜 判断することが大切」であり、「往往にして一長一短」だから結局は「好みによる取捨選択の問題」になるのではないかと私は思っています。

 そんな社会で私は。
 個体差の大きいヒトが、欠かせない毒である薬と、そして何より個体差の大きいヒトどうしと、それぞれ上手くつきあっていける社会を願っています。


 改めまして――。
 読んで下さり、ありがとうございます。
 不快でしたら、申し訳ございません。

 ――皆様の日日が、幸せで健やかなものでありますように。





好きな言葉

いいか医学生、麻酔や麻薬に限らず、すべからく薬というものは使わないで済むなら使うな。薬とは役に立つ毒だ。毒であることには変わらない。よく覚えておけ

『螺鈿迷宮 上』海藤尊
(2008)株式会社角川書店
――桜宮巌雄(P.110)



【訂正】

2022.05.30_「2.免疫と治癒力」免疫の定義と例の内、生体防御の一次防御と混同していた部分を修正(侵入を防ぐのは一次防御であり、免疫は二次・三次防御に当たると理解している)。