大学院の検討

大学院に行くという選択肢を考えてみたい。

まず何をしたいのか?そしてどのようにしたいのか?について考えてみる。

何をしたいか?という問いはかなり自分の中でも難しい。

ただ、一つ確かに言えることは「当事者」について考えてみたい。

結局、全てはそこに帰着するような気がする。

まあ、これはあくまで僕の感覚でしかないと思うけど…

最初は人間と人を分かつものとしての「学問」、そしてその後「食べる」という行為について。

最近は「人権と尊厳」というものの存在が人間と動物(更には神という存在)と分かつものの正体だと思っている。

その中で、「ヒトが人間として生きるということ」を考える上で誰もが何かの当事者性を持って生きていると思う。

しかし、社会はその「当事者性」というものが何かということを捕らえきれていないように感じる。

全ての社会的活動(この場合でいう社会的活動とは、人が社会で生きる上で行う全ての行為を指す)を行う上でこの当事者性とは切っても切れない関係にあると思う。

それを明らかにしていないということが今の社会課題解決に向けての活動が結局根本解決にたどり着いていない直接的・間接的原因なのではないかとすら思っているわけなんです。

そしてそれをどのようにして「見える化」するかという方法論としてアカデミズムという手段を用いてみたいというのが僕が大学院に行きたい最も大きな理由だ。

では何故アカデミズムなのか?

これはある意味で誇張した表現かもしれないが、僕はアカデミアという場所は人類の叡智が集結した場所かつそこにアクセス出来る最も適した場所だと思っている。

これまでの長い歴史の中で培われてきた数多という数の「失敗」と「成功」たち。

実際にはそんなにきっぱりと分かれてすらいないであろう、ただ漠然とそこに在る「軌跡」。

それが僕らにとってどれ程の価値を持つものなのか、僕ら自身がまだ把握できていないようにも思える。

それでもハッキリと言えるのは、アカデミアとは「これまでの全てを記録し整理しようとしている場」であるということだ。

もちろん、残念ながら既に失われてしまったものも沢山ある。

それでも研究という行為を通して、「復元」しようとしているとも言えるだろう。

そんなこれまでの人類のログを客観的データとしようとする試みは非常にスマートだと思う。

だから僕は、現場に出て「もがく」という選択ではなく、いかに残し次へ繋げるかを考えたい。

もちろん、それは現場に出てくれている人が居るから成り立つ話しであることは間違いない。

一方でそれだけではもう限界が来ている節も見受けられる。

環境問題の界隈ではこういう状態の事を「水道出しっ放しにもかかわらず、雑巾で辺りの水を拭いては絞ってを繰り返すよう」と表現するらしい。

これを聞いたときとても言い得て妙だと思った。

目の前の問題の根本になるものに目をつぶって、とりあえず対処療法的に目に見えた問題(課題)に取り組むことが殆どだと感じる。

アカデミックな視点はこのある意味で視野狭窄になっていると言うことも出来るであろう、目の前のことのみに対して対処することに俯瞰的な視点を与えてくれると思う。

個別具体ではなく、抽象的な捉えかたをアカデミックな視点は与えてくれる。

だからこそ、僕は社会課題解決の界隈という超行動主義的な界隈において俯瞰した視点を持ち込む手段としてのアカデミズムに期待する。

だから僕は大学院進学をしたいと思っている。

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