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何故医療人類学なのかということへの備忘録

こんにちは。

今回は今僕が何故医療人類学に注目しているのかについて書いておこうと思う。
前に書いた記事からさらにもう少し言語化された気がするので…

前回の記事↓

実は現状大学院で学ぶことを何にするか悩みまくっている。
まあこれは今にはじまった話しではないが…

その悩んでいるのが医療人類学と社会学だ。

この双方では目的としている学びが異なる。
(まあそんなことは当たり前だろうが…)

医療人類学ではこの後PhDで行う当事者研究の為に必要な「以下にして当事者という存在をみるのか」という視座を得るために学ぼうと思っている。

これまで基本的に我流で人と付き合い、感じた事を考えてきたが(これがまあ普通であろう)、ちゃんと研究するとなるとそれでは問題が出るような気がしている。

要するに、僕の素人目で見たことだけを記録して研究したとして、それは何処までちゃんと情報が取れているのだろうか?ということの自信が皆無に等しいということである。

しっかりと一人ひとりと向き合い、彼らの生き様を観測し、記録、考察するにあたって、観測も記録も素人同然なのである。

こんなお粗末なスキルで彼らを「みていく/捉えていく」ということへの忌避感(僕の中での倫理観的なもの)がなんとなく疼く。

だからその手法を身に付けてから当事者研究を行いたい。

そして、その方法も色々あるだろうが、前回も書いた理由で医療人類学を選んだ。

社会課題解決を試みる人たちの活動に深く入り込んでフィールドワークを行い、活動に関わる(広義の意味で繋がりがあるという状況を含む)ひとの話しを聞き、行動を観察しながら記録し、社会課題解決という行為のバックグラウンドになる文化や、更には社会課題が個人に、社会にどのような意味をもつのかについて探究したい

一方、そもそも社会を捉えるということもまた素人同然である。


人々の認識が何によって形成されていくのか?を考える時に社会情勢や様々な人たちの考え、主義主張、きっと色んなものが絡まり合って形成されてゆく。

しかし、その構成物が何かも分からずに構造を把握しようとしても無理がある。

勿論、構成物となる主義主張などは一歩間違えればスレテオタイピングやカテゴライズなどの危険性をはらんでいるのもまた然りだが、名前や概念を知ることで見えてくる世界もまた大きい。

そして、最大の問題はこの双方を同時に行う必要がある。
ただ大学院で選べるのは一方のみ。もう片方は自力でどうにかするしかない。

となると、どちらが独学でマスターするのが難しいか?という問いとなる。
そうして思うのは医療人類学的視座の方が独学でするのは難しいのではないかという思いだ。

だから医療人類学を大学院でやろうと考えている。

しかしまだまだ前途は多難で、そんな自由に医療人類学を学べる研究室は世界の何処にあるのだろうか?

ネットが無い頃に比べればマシかもしれないが、ネットでは見えない雰囲気のことなどは未だ存在する。

その中で研究室選びをしなくてはならないというのは本当に難しい…

この辺りの課題についてもいつか休憩がてら思いを馳せてみたい。

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