「税という社会の仕組み」諸富徹著 ちくまプリマ―新書

 世の中には、税と言えば、節税とか脱税とかいかに国家から税金を取られないようにする工夫を述べた本があふれており、そのニーズも高い。ふるさと納税に関する狂騒もいわば節税策だし、新NISAが話題になっているのも、無税だからだろう。

 本書はそういう狂騒とは一線を画す。

「納税といえば日本では、お上(政府)が市民に対して一方的に金銭負担を課すイメージですが、本来は納税する者がその使途に対して発言を行い、改善を求める「権利」を獲得するプロセスだと理解すべきなのです。」

 本書で貫かれている姿勢は、納税を「義務」としてではなく「権利」として捉えなおそうとする点であり、このことを理解するために「税とは何か」、「税はどのようにして生まれ、発展してきたのか」という税制の歴史を明らかにしている。

  もちろん、なぜ税が生まれたのか、そしてどのように発展してきたのかを知るだけでも十分面白い。著者は納税の「権利」を国民に取り戻せば、政策手段としての税金の役割を発揮させて、声の大きい富裕層や大企業の思惑に左右されることなく、政府をコントロールして社会問題の是正を要求することができると説く。

 その姿勢には共感できるところも多い。

 しかし、議論の出発点が「税とは財源であり、公共サービスに対する対価であるという考え」にあり、その範囲内でしか「税とはなにか」、「税がどのように生まれ発展してきたのか」、「主権者としての納税の権利を取り戻す」という議論を進めているだけなので、公共サービスを受け取りたいなら税金を支払うのは当たり前だろうという発想から抜けきることなく、「財源調達手段としての税金」と「政策手段としての税金」の対立を論じても、やはり納税者は納税の義務感を拭い去ることは永遠にむずかしいのではないかと思う。少なくとも日本では。

 もっとも、近時、この「税は財源である」という定理のような考えに対して明確な異議申し立てが主張されている。
 すなわち、租税制度とは、財源の確保のためではなく、支払い手段としての通貨の需要を生み出す機能を有していること、物価の調整手段としての役割を果たすことに存在意義があるとの主張である。


 このMMTの立場の人たちが主張する租税制度の考え方への新古典派経済学者、財政学者の反論は乏しい。あっても説得力がない。かろうじて貨幣の定義に関する立場から岩田規久男の「経済学の道しるべ」が明確なMMTの批判を行っているが、租税制度に対するMMTの理解に対する批判にはなっていない。物納を認める相続制度が例外的に存在するからといって、貨幣で納税する手段が一般的である以上、租税制度が通貨の需要を生み出す機能を有していることの否定にはならない。
 おそらく、「税は財源である」ということを定理のように信じ、それを議論の出発点に考えてきた結果だろうと思う。

 しかし、税は財源である、国債は返還しなければならないとの信念のもと、長年に渡る財政政策、経済政策のミスから租税制度、なかんずく消費税制度には根本的な疑問が生じている。本当に「税は財源なのか?」という根本的な疑問に対して、現在の租税制度を学問的見地から支え続けてきた財政学者たちには答える義務があると思う。


諸富徹には租税の歴史を紐解いた名著がある。

https://www.shinchosha.co.jp/book/603727/

 この新潮選書が発刊された2013年当時は、まだMMTの議論が本格的になされていなかったので租税制度の存在意義について「税が財源である」という前提を出発点にして議論を展開していてもおかしくないのかもしれない。


 
 近代国家における税の成り立ちを考えると、公共サービスの対価として税金を納めるという考え方が歴史的に根付いたのもやむを得ない。しかし、金本位制が崩壊し貨幣に金という裏付けのないまま流通する現在、貨幣の定義とともに、何故、租税制度が存在するのかに関する認識は変容しつつあるのではないだろうか。もはや公共サービスの対価としての税金という捉え方では国家財政は立ちいかなくなるように思う。


予算は国民が考える「社会が追求すべき価値」、すなわち「社会的価値」を反映するもので、予算編成は、その社会的価値を形にしていくプロセスです。できた予算は、少なくとも過半数以上の人々が支持する形での、財政資源の配分のあり方を示すものだといえます。

諸富徹. 税という社会の仕組み (ちくまプリマー新書) (p.191). 筑摩書房. Kindle 版

 まさにその通りだっと思う。
 それゆえに、「財源調達手段としての税金」ではなく、さらに踏み込んで政策手段としての税金のあり方を考える必要があるのではないかと思う。

 

一定の公共財(政府支出によって提供される財・サービス)の供給と引き換えに、それぞれの消費者がその対価として支払うのが租税であり、彼らの支払意思額(=租税負担率)を表明してもらうことで、消費者の限界便益曲線を把握できれば、税率決定の論理を経済学的に説明できるのではないか

諸富徹. 税という社会の仕組み (ちくまプリマー新書) (p.198). 筑摩書房. Kindle 版.

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 しかし、公共サービスを受けるための対価として税金を考える余地を残す以上、財政支出が国民の求める公共サービスに縛られることは避けられないのであり、財務省が言うように財政の硬直性が維持され続けることになるだろう。

 財政の硬直性を避けるために、政府・財務省は緊縮財政・増税政策を推し進めるのであろうが、それは結局、国民に「義務としての納税意識」しか生まないことに繋がっているのだと思う。

 公共サービスの対価としての税金という発想を持ち続ける限り、国民の納税に対する義務感は払拭されることはない。政策手段としての税金のあり方を根本から捉えなおすべきだ。

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