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世界のヒエラルキーが急速に壊れつつある時代に

京都の老舗料亭である「岡崎つる家」に、妻とお昼ご飯をいただきに行った。この料亭は数寄屋建築で、吉田五十八の設計によって既存の邸宅が改修・増築され、纏りがつけられたものだ。
池のある、大きな庭園を南面に臨む個室に通される。庭から水音のせせらぎが聴こえてきて、浄土に行ってしまったかのような時間が流れていた。水面に映る光は輝き、六月の緑はこうも鮮やかだったんだなと思った。
こうした日常の直接的な用途・目的から外れた時間と空間は、ヴェネチアビエンナーレの展覧会場の一角にある、カルロ・スカルパ設計の「彫刻の庭」を思い起こさせる。鑑賞に疲れて一連の展示空間から外れ、その小さな中庭で休んでいると天国にいる気持がしたものだ。そこにも池があり、絶え間なく水音のせせらぎが聴こえていたが、浄土や天国には水の流れが付き物なのかもしれない。

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ぼくたちが通された客間には、様々な空間が内包されていて、時間を忘れて、ずっといることができる。部屋の四方を見回すと、それぞれに異なった空間の情景が広がり、とりわけ床の間が、部屋を上品に引き締めていた。床の間は料理をしたり風呂に入ったりなどの直接的な用途・目的をもたない一見無意味な形式だが、だからこそ、他に縛られない「物だけが存在する」純粋な空間を、その中に宿すことができる。
竹、リシン壁、地板、黒漆、畳の目。物質が持つそれぞれの特性に従って、異なる材同士は必然的に組み合わされ、均衡に導かれ、各々の物質としての個性を互いに引き立て合っている。
このように、吉田五十八は「コンポジション(構成)」という純粋芸術を試みる場として、床の間を活用していたように思われる。

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人間はひとりでいると自分がどういう個性を持っているのかわかりづらいが、複数の人と一緒にいることではじめて、各々の人となりは際立たされる。
以前、高名な数寄屋大工の茶室に招かれ、お茶をいただいたことがあった。見付やチリのバランスが絶妙で、材と材とが互いに魅力を引き立て合い、息を呑むほどの美しさだったが、写しの茶室だという。オリジナルから間取りだけを引き継ぎ、それ以外は写しを作る側の裁量で作られたと話されていたが、後日オリジナルの茶室を見る機会があり、明らかにオリジナルよりも写しの方が素晴らしい、と判断せざるを得なかった。
建築を建築たらしめる要は間取りではなく、材の種類や寸法の扱いなどといった物質的な局面にこそ存在している。

「岡崎つる家」には、物のヒエラルキーがない。(主としての)構造があって、その表面に(従としての)仕上げ材をまぶすといったようなあり方ではなく、物という名の下にすべてが平等に扱われ、互いに異なる物同士が独立しつつ、水平的に協業することによって、建築がつくられている。
簾や畳、建具といった、建築にとって周縁的なものとして軽視されがちな一つひとつは、柱・壁などの主要構造と同じ重要さをもって建築を支える。新築部分と既存部分は、互いを引き立て合いながら、柔らかく結びつく。
たんに相異なる物同士が共存するのであれば、物同士は反発しあい、雑然とする。多様な物同士を水平的に協業させるには、それらを統合する「統合の理念」が不可欠であり、物の世界において、吉田五十八はそうした理念を示すことのできた人だったのだろう。

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美味しい懐石料理をいただきながら、「Black lives matter」のことをあべこべに考える。同じ時代、同じ世界で、経済の不均衡に由来するデモが起きている。世界の不正との同居。阿鼻叫喚の叫びはまだ料亭には届いていないが、このような桃源郷で美しさにかまげていていいのだろうか、とも頭をよぎる。
一方で、贅沢な文化は喜びや夢を与えてくれる。人生に夢がなければ、生きていても味気がないように、贅沢それ自体に罪があるのではなく、それが限られた人達にのみ独占されることが問題なのだろう。ヴェルサイユ宮殿でもアルハンブラ宮殿でも、現在では公共建築として世界中の人たちに分有され、人類に潤いをもたらしている。贅沢な事物を公共の財産として、皆で共有するモデルはサステナブルに思われる。贅沢と美は隣接しており、美しい物こそ皆が大切に思い、次の世代に残そうとするからだ。

「Black lives matter」を扱ったドキュメンタリー番組のなかで、フランシス・フクヤマが多民族国家であるアメリカを束ねていた「憲法」「法の支配」「民主主義」といった共通の理念の喪失を語っていた。相異なる民族同士を束ねていた理念が失われることで、それぞれのアイデンティティを盾にした部族間の闘いのような状態に陥りつつあるという。
アメリカに限らず、世界のヒエラルキーが急速に壊れつつある時代に、どのような「統合の理念」がありうるのか。建築は社会構造に規定されるのが常だが、建築が社会構造に働きかけることができるとすれば、それは何か。そういう問いを2020年の今、考えなければならない。

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