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エクリチュール 枢軸時代における芸術論への前段

・人間には動機の調達が必要であり、その実感が人を動かすことを可能にする。言語より現実といわれる動態のほうが、より、動機的であり、調達可能性を高く維持しているのである


直進遠近法

・世俗内禁欲(カルバン的な)は、基本的には、というより実質においては、冤罪のために行われる。世俗内禁欲こそが、資本主義を生み出したのであれば、エロースを人間はあまりに見下し過ぎたということが言いうる

・いずれにせよ、西洋宗教的な神の国(βασιλεία τοῦ Θεοῦ)への途上はさながら呻きの地獄である。あらゆる冤罪性や非業性は払拭されない限り、忘却されることがなく、それゆえに、彼岸への中間にそういった存在史のレイヤーが焦げ付くように重ね合わさている

・個々人が被る、不幸。シモーヌ・ヴェイユの見出した不幸の、その個人性のなかに、存在史的な、呻きを、外存として見出すことは、思弁的実在論(たとえば、カンタン・メイヤスー)ほどの恐怖や被災性を意味しない

直進性についてのドローイング

・なぜなら、避けては通れないという、一性、の道だからである(と、いうように言うことも可能なのである)

・このことは、確かに、西暦(アンドミニオン)的なのである。なぜなら、その呻きの谷こそ、ある種の復楽園としての正統の彷徨いの道なのである(決して天使的階梯ではない。あの天使的偽証を真っ向から否定する通路なのである)

・なぜなら、ギリシャ文明は、あの人間の理想を最も満たし得たあの文明が滅びたことは外的要因や偶然ではなく、完全なる必然に基づくからである

・確かに、エロースよりタナトス(死の欲動)のほうが、欲望としては勝るものにも関わらず、無論、タナトスによってギリシャ文明は滅びたわけではない(神としてのタナトスは、神話において主役的な役割はさして有さない)

・問題は、エロースやタナトスをさえ上回る、ゼウス的なもの、なのである


三一的なパースペクティブについてのドローイング

・ギリシャにおいて、人間の理想は叶えられたと同時に、まさに、ミケランジェロが見出し、戦慄した、あのラオコーンの彫刻のように、宿命に絡め取られるのである

・それは、全知全能、というあのゼウスという存在が、それであっても可能なことが、まさに、可能な現実が、虐殺か不倫、という限界性を突破できず、運命ならぬ宿命のなかで、糸車を回すモイラの不気味において、偶然性、という誰もが責任(限界状況)を取らないという思弁的実在論の神(まさに思弁的実在論の神)に、座を譲らざるを得なかったということにある(これこそが、存在の宿命なのである)

・抽象画の王者であるジャクソン・ポロックが、その王座を得たにも関わらず半ば発狂的に車で突っ込まなければならなかったような、その陰影についてなのである(少なくともポロックは、創造の深淵による自滅よりも、さらに大きな問題を抱えていた。ギリシャ文明の滅亡と同じ危機について、なのである)


べき乗的なもの

・ギリシャ文明は、太宰治的な、あの「トカトントン」に犯され、ついに果てた"延々"性なのである(不条理という不可能性の前にも、結局は、「トカトントン」にすべてが根こぎされるのである)

・言うまでもなく、このことに対立しながらも、ある種の激烈なパトスで、そのことを打ち破ったのは枢軸時代的には釈迦とイエス・キリストである

・釈迦は死という一点自体を、生の目的としての死(ニルヴァーナ)として設定し直し、その虚無を目的自体(つまり、虚無ならぬ無)に変換した。仏教の、すべてのものが苦しみ(ドゥッカ)という見立ては、このために要請された二次的理由に他ならない(彼は、苦しみ以前に、シャカ国という世界全体性の反映に対して、深淵なる飽き、を抱いたからこそ、苦しみの発見への道に乗り出したとしか思えない。苦しみの発見は、実は、飽き、の発見の"後"なのである)。ここに仏教の非神話化、釈迦の非聖化の視点を見出す

・また、イエス・キリストは、死によるあらゆる限界状況的なものを、能動的に受容するということが、つまり、万物の奴隷になり下がることを以ってゼウス的限界性を、偶然性による支配を、人間的宿命を、運命に塗り替えた(そのためには、能動的な磔への意志、という非業の業化という合理計算外の、まさに非人間的な神へのテオーシスが求められたことは言うまでもない)

・釈迦もイエス・キリストも、太宰治的な「トカトントン」。つまり、すべてのことがどうでもよい、という虚無に抗した生命体だったのである


前デフォルメの横顔

・だが、にも関わらず、仏教は発祥の国では忘れ去られ、キリスト教は支配力を喪失し、文明や文化、人々の生の生活とは殆ど関係を喪失している(生死の境界線においてのみ、それらが要請されるに留まる)

・いまだに、ギリシャ文明から引き継がれた残根は、明確な歴史の根であり、それは、科学主義的なシンギュラリティ論や資本主義やその行き着く果ての加速主義、または民主主義を標榜する現在の民衆主義や自律分散型の独裁システム(コネクションによる政治世界の現実)に着地し、世界にその呪われた基盤(ナッシングネスのマトリクス)を蔓延させる他にない状況が続いている

・この、寿命、による逃げ切りシステムの延々性を、先祖信仰ならぬ先祖崇拝に切り捨てたのが、不可能性としての日本であり、その全容に直面したものは、ある虚莫なものに対応することとなり、また、有虚を見出すところのものになる

・その当人は、資格保有者、なのである


非直進性

・いずれにせよ、枢軸時代において宗教的な対抗が為されたが、結果的に歴史はやはり、そこから漏れ落ちて、今日に来てもなお、偶然性、に神を見出す(思弁的実在論)ということをしなければならないモイラを仰ぐゼウス的なものの領域なのである

・さて、ひとつの結論を記すのであれば、いずれにせよ、枢軸時代的な芸術は可能であるということなのである

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