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日記 実存神学的煩悶 禁欲の意味、宗教の無意味さの、だが、その意味。聖なるものと神聖なるものの異なり

・実存的にイエス・キリストという要請は、過酷である(およそ、神学といえば、基本的にはイエス・キリスト以外を意味しないように西洋では進展してきた)

・イエス・キリストを信じるということが、こちらからの人間の無意識的な所有欲をしか意味し得ないのではないか、ということ

・カール・バルトの言うように、人間は実直に言って、エロース以外に、愛(カリタスなどの)を持たないのであれば、イエス・キリストへの信仰とは、イエス・キリストの所有欲なのではないか、という重大な疑義に到達する

・つまり、神を所有したい欲望(エロースに由来する所有の欲望)、が実存としての神学的なひとつの結論に到達する他ない

・これが、信仰者や教会には見えない自身の盲点なのである

・だが、ここが、哲学と神学の思考の異なりであり、宗教の、あの悪しき、そして最善の回答になるのでもある

・曰く、「(神学的な信仰のひとつの結論は)神がわれわれ人間を所有するゆえに、われわれは、神により神を信仰することが可能になる」である

・つまり、神学はすでにして、「神による自由な人間の選び」を前提にする

・このことは、つまり、「神秘」という言葉に集約される(「召命」といえば、わかりやすが、「召命」が行われる述語こそ、「神秘」であるだろう)

・つまり、信仰とは、神の所有欲(エロース)であることに、まず、基本線がある、と考えるが、現に、信仰は、神の所有、とは正反対の述語でもある(それが、そう、とされていることを汲み取ると)

・ここから考えうる結論は、「確かに、人間は神をエロースゆえに所有したいと考えるが、その位置に重なるように、神の側から人間を所有する愛としてのカリタスが働き、人間に信仰を可能とさせる」(そのままの結論)

・まさに、神による行為こそ、人間の神への信仰なのである

・信仰する、とは、人間側の述語ではない可能性を指摘したい。神の側の述語なのであろう

・さて、この意味で、信仰者の栄光とは、神の栄光であることに行き着く(信仰自体が、初発において神によって発走されたものである限り、栄光は、その行為主体に帰せられる。人間ではなく神の栄光、である)

・もしかしたら、人間が神の前に、可能なこととは、シモーヌ・ヴェイユの言うように、自らを宙空に保つことである。聖なるものになる、ということ(聖別)。聖なるものとは、聖なる空(から)、のことである(ケノーシス)

・そのときに、聖なるものは、神聖なるもの、になる

・聖なるもの(空)、に、神、が訪れ、満たし、神聖なるものが現生するのである

・つまり、あらゆる宗教的な禁欲や行とは、"全くの無意味"を究極に意味するのである。善悪のイデオロギーや威圧行為で行われるのではなく、徹底して、"無意味"をこそ、追求するのである。善の追求などではない

・だが、その、無意味、という余白に、はじめて、神は訪れることが可能になり、神は訪れる

・そのときに、それらの、無意味の追求、としての禁欲や行は、"再帰的に"、かつ、"メタ的に"善の追求であった(過去形)ということに、"なることが出来る"、のである

・結果より過程が重要である、という訓戒めいた言説の有効性はこういった点にあるのではないだろうか

・だが、重要であるのは、シモーヌ・ヴェイユは早々に、死してしまったし、なによりまず、「本当に禁欲や宗教行によって、"神は訪れるのか"、である」

・これは、はっきり言えば、わからない(神秘体験をしている手前、証言はできるが、証明はできない。おそらく、証明してしまっては、それそのものの効力が喪失されるということだろう。その意味とは、結果的な無意味による意味、を追求するためには、それが意味だと知っていては無意味化する過程が踏めず、最終的な意味に到達不可能である、という人間という限界性を指摘していることになる。無論、神秘体験は空とかそういうことではない。正反対であり充填されたクオリアと視覚や四肢の映像さえ伴い現実を完全に転覆させてしまいさえする)

・こういった、証明ベースでの意味において、神が訪れるのか、は、やはり、わからない

・だが、それでは無常に"過ぎる"

・ゆえに、こう言うことは可能性かもしれない。「神が訪れるのかはわからないが、他者は訪れる余地は生まれうる」

・目的を前提とした、生産性や効率、を叶える方法としての他者とは、他者ではなく自分の分身でしかない

・一方で、そういった、目的的他者、とは関係なく、純粋他者、みたいなものを、人間※は必ず求めるように思う(出会いや訪れこそが、人間を人間にするし、人生に位置づける)

・だが、エロースゆえに、目的的な他者しか、たしかに人間は求め得ないのだとしたら、純粋他者が訪れることは、神のゆえ(カリタス、アガペー)、ということに、議論は巻き戻ってしまう

・つまり、帰納法的に、神は純粋他者である(人間が、わからない、けれど、あるところのある神"だろう")

・字余りは、それでも、"だろう"、と言えることの神秘(全くの謎であり、まさに神秘である)

※しかし、この、目的や効率や生産性と関係のない、純粋他者なるものを求める、主体、とは、本当に、人間、だろうか。神、と呼びたいが、神、は人間からして存在証明をされていない(というか、高次の他者様のことだからして、してはならない、ということ)。
この際に、この、人間同士を出会わせたり訪れさせ、人間を人間たらしめる、主語なき主体、みたいなものを、トポス(場)と呼ぶ以上に、愛、と呼ぶことがよりふさわしいように思う(カリタスとは、現象、である)


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