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【NOVEL】体躯の日 第4話

 俺は首だけを動かして、枕に擦りつけるように顔を反転させ、恐る恐る薄目を開けた。判断出来るものは、あまり多く無かった。普段、近眼であることに大した不便を感じなかったが、このような緊急事態になると、極めて情報弱者になってしまう。
 ぼんやりと眼前に写る玄関には、人影すら無い。昨夜、肘掛椅子に置いていた鞄は、行儀良く座っていた。こんな簡単な動作に、つまらない心配をしていた。悪い癖だ。どうやら、事細かに状況を飛躍し過ぎてしまったようだ。
 というか、泥棒は何をやっているのだ。そもそも、部屋を物色するなら真っ先に寝室にある鞄ではないのか。それとも、奴の経験上、洗面所から盗みに入るのがセオリーなのだろうか。いやいや、そんなはずは無い。通常、貴重品は鞄の中だ。やはり犯行は筋違いだ。俺が泥棒であれば、まず、玄関扉にドアストッパーを挟めておき、真っ先に寝室へ向かう。鞄を見つけたら、その中身が分からずとも脇に抱え、とっとと部屋を出るに決まっている。
 俺は、自説と言えるべきもの(ここまでくると、単なる憶測であるチープな思い込み)を踏まえた際、奴に対する疑念が益々膨らむばかりであった。判断が大いに鈍ってしまっている。盗った様子の無い物取りであれば、それこそ赤の他人で済むのだ。害が無いのであれば、奴と対峙する際、こちら側が自分の意見を引っ込めた上で、それを逆手に取ることだって出来る。
 つまり、相手が泥棒だってなんだって構わないのである。勿論、構わないというのは、相手の素性が分かった上で実行するのが一番有効なのかもしれない。が、この際もうどうでも良いではないか!何が酒瓶で後ろからガツンとだ、危うくこちらが気違いになってしまうところだった。
 あの扉が開いて、男が出て来るのを待とう。そして奴と向かい合ったら、俺はまず驚いたふりをするが、すぐさまこう言うのだ。「ここは六〇六号室ですよ?」と。そこには、相手方の素性であったり、何をしていたかも一切問い詰めようとはしない、究極の譲歩を演じ切れば良い。泥棒であれば、その演出に乗っかるであろう。彼らだってその場で白を切る演者になれるはずだ。「あれ?道理でおかしいと思った」とかなんとか言って、その場をはぐらかして出て行くに違いない。仮に、本当に部屋を間違えた宿泊客であれば、あちらさん赤面して、あわてて廊下へ出るに違いない。そう、俺は先方が部屋を間違えた体で一声を先行すれば良いのである。
 ただ、一番怖いのは、たったそれだけの賭けをしておきながら、沈黙が続いてしまうことである。沈黙は怖い。もし、そうなってしまったら、俺の身勝手な妄想は瞬く間に膨張してしまい、下手すると、どちらか一方が犯罪者になりかねない修羅場と化してしまうのだ。
 奴は、部屋を間違えた宿泊客である。後のことは、その場の直観に頼るしか他無い。
 俺は、目をきょろきょろさせて、最悪な事態に備えるべく、もう少し楽観的になれる要素を考えながら、そして周辺にそのような物的根拠が存在していないか、改めて確認する。こうしている間にも、洗面所の男は、がさがさ物音を立てているのである。やはり時間帯にしても、ここまで余裕を持った盗人は考えにくい。その疑う心には、もはや彼が泥棒であって欲しくないという願望でもある。
 そうか、分かったぞ。それも俺の先入観だったのだ!知らぬ人間が、部屋に忍び込んでいるのは泥棒であるという勘違い。朝食を終え、誰もが自分の身支度を進めているこの時間帯、他にも可能性があるじゃないか。宿泊客である我々が、チェックアウトするのを今か今かと待ちわびている、朝の時間をむさぼる様に労働へ費やす連中。清掃員だ!ビジネスホテルには彼らがいるではないか。
 彼らには、時間内に一定の部屋数を清掃しなくてはいけないノルマがあるに違いない。少々強引なシステムではあるが、この部屋を担当している清掃員が、しびれを切らして入って来たのであろう。なんだ、それであれば起こしてくれても良いのに。昨日、フロントで貰ったホテルの冊子に目を通しておくべきであった。
 おそらく、当ホテルのチェックアウトは七時までに済ませなくてはいけないという、少々理不尽な時刻設定だったのだ。俺は田舎者だ。てっきり全国一律で午前十時くらいまで余裕があるのかと思っていたが、この繁忙煩雑極まりない都心部、ましてや駅前に位置するビジネスホテルである。それくらいせっかちなホテルが世の中に存在してもおかしくない。出来る男であるならば、というより都会のサラリーマンは当たり前なのかもしれないが、奴らの朝はこうだ。
 まず、一階のフロントへ行き、チェックアウトを済ませた後、その足でエントランスの傍にあったレストランへ向かう。思うに、そこが朝食バイキングの会場になっているのだ。入館した際、俺は確認しておくべきだったのだ。会場入り口のメニューボードにはおそらく、朝食の案内、及びタイムスジュールが書いてあったに違いない。そこで朝食を済ませ、その足で出勤するのだ。
 宿泊客にはかなり失礼ではあるが、これは忙しないサラリーマンに合わせたシステムなのだ。モーニングコールなんて甘っちょろいものでは無く、半強制的モーニングルームクリーニングによって、寝坊助のあなた以外、世間はもう動いていますよという暗黙だ。それに乗り遅れることなく、お客様も早く起きて下さいという無言の圧力。それを考えると、勝手に部屋へ入られているわけだから、怒り出す客もいるような気もするが、俺にとっては、結果として存外悪いものでは無かった。
 やれやれ、納得したと同時にほっとしたよ。当初、俺は怖くてこの羽毛枕を微かに動くことだって出来やしなかった。いつまで鳥の羽を嗅いでなくてはいけないのかと不安であったし、これほど朝から緊張するとは思わなかった。お蔭でスリリングな目覚めが出来た。ここまで来ると、勝手な思い込みからやってくる演出だな。洗面台の扉が開いたら、彼にはむしろご苦労さん、そしてすみませんと言ってやるのが妥当なのかもしれないぞ。
 なぜなら彼は泥棒でも何でも無い。おそらく俺が三度寝している間、玄関で何度もノックをしたが、あまりにも俺が起きて来ない。待つのも我慢ならないとなった彼は、マスターキーでも使って入って来たのであろう。独り言の多い清掃員、または携帯電話で通話をしながら仕事をしている不真面君。そんなところであろう。やれやれ、人騒がせなホテルだ。チェックインの際、フロントで一言あっても良いものだ。ここを出る際に、クレーム調子は避けたいものだが、客としての主張も少しは伝えないとな。さて、そうと分かれば、さっさと支度をして…
 不気味であった男の素性が不明であっても、世間知らずの俺は、彼を清掃員ということで自得するのである。緊張が解けると、俺は五感がぱっと明るくなるのを感じた。

【NOVEL】体躯の日 第5話|Naohiko (note.com)

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