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【NOVEL】体躯の日 第5話

 足元にある空気清浄機がうなり出す。俺は密閉された一室で寝泊まりすると、鼻が詰まり、喉が渇いてしまう。
 ここは駅に近く立地も良い。フロントマンは、やや説明不足ではあったが、とても感じが良い。ベッドも快適であり、大浴場も清潔感があり満足のいくものであった。昨夜、無料で提供された夜食のうどんは、小腹を満たすには丁度良く、学生の俺には大変有り難いものであった。今度来る時には、ぜひ禁煙室を予約してみたいものだな。
 おそらく、朝の喫煙者というのは、円卓に灰皿を置いて、肘掛椅子に浅く腰掛ける。左手の珈琲カップと、右手に持った煙草のフィルターを代わり番こに唇へ運んでは、窓の景色を眺めながら一服する。味覚の広さは大人の特権とも言うが、俺は舌が子供なのか、正直どちらも好まない。やがて喫煙者は、部屋をふと見渡してみると、この一室が全てにおいて配慮された設計であることに感心するのである。
 例えば、玄関脇にあるオープンクローゼットにしてもそうだ。入室してすぐ上着をハンガーに吊るすべく、ドア横に突っ張り棒がある。まず上着を脱いで、肩の荷を下ろしましょう、と言わんばかりだ。上棚には、消臭剤まで置いてある徹底振りだ。飲み会の後の臭いであったり、如何わしい店で付いてしまった匂いであったり、何にしても背広にまで配慮が行き届いているのは、日本人気質のおもてなしであろう。
 部屋の利便的な趣向に感心している俺は、その玄関脇の突っ張り棒に対して、ぼんやりとした違和感を持つのである。それは「あれ、なんか忘れていなかったっけ?」というような、既存のものがぽっかり無くなったことによる、心のちぐはぐとよく似ている。そして、それが何故しっくりきていなかったのか。それを悟るのに、大して時間は必要無かった。昨夜、自分が入室した際の一連の流れを思い出したからである。ホテルの心遣いに感心している場合では無かった。
 …ちょっとまて、俺の背広が無いじゃないか!昨夜、俺は部屋に入ってすぐ、堅苦しい紺色の上着を洋服掛けに吊るし、社会への従順を誓う首輪っかをすぐさま外して、あの突っ張り棒に掛けたはずだ。ワイシャツもそうだ。汗をかいてしまい、首元が汗地味になっていたので、消臭剤を大量に吹きかけ、それだって吊るしたはずだ。というより、俺の背広一式が無い!
 まさか、洗面所にいる男は清掃員では無く本当に泥棒なのか。
 …なるほど、分かった。男は、ビジネスホテルを専門とする、ジャケットのみを狙う泥棒なのだ。あちらさんも考えたものだ。金品目当てであれば、寝室まで入らなくてはならない。盗る対象が決まっていれば、深入りは無用。玄関口の横にあるハンガーに手を伸ばすだけで済むのである。ましてや、ビジネスホテルの構造は、外観が幾分異なっていても、各部屋の間取りは大体同じだ。であれば、盗む標準を上着や背広に合わせることが容易に出来る。おそらく奴は、盗った物をインターネットに転売するのであろう。そうだ、そうに決まっている。忍び込んだ際、あわよくば寝室を物色するのかもしれない。宿泊客が寝ている場合、寝室に入るリスクも無く、確実に上着だけを盗むことが可能である。
 そうとなれば、うかうかしていられないぞ。リクルートファッションとはいえ、俺はあの背広を着て、高速バスで田舎からわざわざやって来たのだ。外着が盗られてしまっては、寝間着で入社試験を受けに行くという前代未聞の受験者になってしまう。
 よし、今に見ていろよ。速やかなかつ肝っ玉の大きい行動は、相手の不意を突くのに丁度良い。半ばやけくそではあるが、あの扉を勢い良く開けて、酒瓶を奴の頭に振りかざしてやる。
 …感性や意欲の作用とは区別して、思考というものは、概して頭の中で済むことである。頭の中での行為に過ぎず、それ故に俺は思いめぐらせていただけである。造作無い。無くなった背広よりも、洗面所にいる男の素性より何より、俺が違和感を持つべきところは本来そこでは無かった。
 無論、初動のすべてを行うのに必要なのは頭ではなく“身体”である。布団の中で包まっていたはずの、その肝心要となる己の首から下が跡形も無いことに漸く気が付いた。
 その現況に感覚があったのなら、とっくに慌てふためいていたはずだ。留年したとはいえ、俺は理学部理論物理科を卒業した男だ。人前で事細かに話をすることは苦手であるが、現象の概要を理路整然とまとめることに関しては、得意であると自負している。言うならば、これまで経験したことの無い心的現象。その筋道をよく分かるように解き明かすには、事実と併せて話すのが良い。
 寝返りを打つ際、腰の方から力を入れて太腿を回転させるという行為が、実の無いものに感じられて仕方が無かった。それは習慣も例外では無い。ベッドの上で背伸びをして、全身で身体に酸素を吸入させる行為、硬直しつつあった夜の身体を復帰させるための準備段階。それらに対して、身体が空虚なことにまず疑念を抱いてしまう。いわゆる、脳が信号を発信する際、中枢神経を通って身体にこうこうこうしなさいという指図である。朝はまず、上体を起こして、背を伸ばし身の丈を高くしなさい。だが、司令塔がいくら指示系統を出してみても、その先々にある四肢に辿り着くこともなく、首というバイパスでぶつりぶつりと情報が途切れてしまう。
 枕の上でごろごろとあがいているうちに、首元に掛かっていた布団が、その自重でするっと音も無く抜けてしまった。
 動転しようにも、文字通り心ここに在らずである。生首になってしまった俺の奇怪さが、決して夢見では無いということだけは、読者には信じてもらいたい。また、第一声が「あ、ちょっと…」と発してしまい、何がちょっとなのか自分でもよく分からないが、丁度、誰かを呼び止めるような声を出してしまった。それは動揺した際、俺の単なる口癖であり、どうしても出さずにはいられなかったものでもない。ましてや、洗面所にいる男に助けを求めたわけでも無く、というより男の素性は、もはやどうでも良くなっており、それどころでは無くなっていた。
 存在するということは感じることである。心のぐらつきであっても、それは目の当たりにする光景からやって来たことであって、自分の存在の有無から生じた動揺なのであろう。胴体を失ったという、常識的見地からでは考えられないと同時に、今いる自分が頭部のみでの存在を自覚しなくてはいけないという見地に帰着する。腑に落ちないが、落とすしかないのだ。
 だが、こうなってくると、何が起きても時宜に適うはずもない。トイレのレバーハンドルを押し込む音と共に、ごぼごぼと便器を走る水流の音が聞こえ始めた。ドアノブが回転し扉が開くと、奴はベルトを閉めながら、ぬっと出てきた。
漸く、ご対面。

【NOVEL】体躯の日 第6話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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