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【NOVEL】体躯の日 第2話

 顔を枕に沈めたまま三度寝をしていると、ありもしない声がどこからか聞こえて来る。そんな声で目を覚ますのも不快であった。俺は、十分な睡眠を確保した段階で寝床を起き出たいのだ。未明の目覚めは不本意であったし、このような不意も勘弁してほしい。
 その聞き覚えのある声柄と口調に、俺は自然と聞く耳を立てた。…身近で聞いていた気がする。俺も未だ寝惚けているのだろうか。いや、これはおそらく、身の回りを気にしていないことが原因だろう。友人の声を聞けば、そいつの顔がぱっと浮かんで来るものだが、我ながら薄情なものだな。普段、テレビで見ている芸能人の声じゃあるまいし、身近であればあるほど自分が情けない。
 廊下に知り合いでもいるのか?だとすれば、期待もしない予期せぬ偶然だな。俺は、これから憂鬱な入社試験だというのに、彼は何をしにここへ来たのだろう?まぁ、差し当って観光だろう。そうだ、そうに決まっている。この時期、未だに就職活動をしている奴なんているはずも無い。廊下で立ち話をする余裕、俺にだって欲しいよ、まったく。
 のぞき穴から覗いてみようか。いや、そこまでする必要無いな。第一、声だけで知り合いと決めつけている先入観がおかしいのだ。数少ない俺の友人が、同日、同じホテルの階層で、それでいて俺の部屋の前で誰かと立ち話をしている確率というのは、どんなものなのだ。そんな偶然は天文学的数値に匹敵する。あり得るわけが無い。
 それはそうと、声が一色しか聞こえて来ないのはどうしてだろう。男は独り言を唯々言っている変人なのか?
 そうか、声差に惑わされているのは、そのせいだったのだ。独り言には合の手が無い。あぁ、俺も本当に馬鹿だな。声が一色だけ聞こえて来るから、彼は独り言を言っている、という思い込みが実によくない。
 ケータイだ、ケータイ。
 彼は、廊下で声高に通話をしている俺の友人の声に似た男。それで合点が行く。まったく、こうしている間にも時間は経ってしまったではないか。でもまぁ、急ぐことも無いわけだから、もう少しこんな体勢でいるのも悪くない。どうせ約二時間後には、額と脇に汗を滲ませ、てかてかなおでこ、はかはかな気持ちで、会社の人事部であろうサラリーマンと上っ面の談話が行われるのだ。
 相変わらず男の声は、ごにょごにょとしか聞こえて来なかった。話の細部が聞き取れずにいたのだが、何やら他人事ではない文脈である。聞き覚えのある企業に加え、大学名、論文テーマなど、思い当たる既有の単語が奴の会話に所々点在していたのである。
 すると、男が急に明瞭な声を発したので驚いた。ただ、俺が驚いたのは、出し抜けの声にも然る事ながら、その声の出所である。壁一枚、扉一枚挟んで“廊下”から声が聞こえて来ると勘違いしてしまった理由は、一人でこの部屋にチェックインしたことによる安心感からなのかもしれない。それに加え、ビジネスホテルの一室における、構造の把握が甘かったことも否めない。理由はともかく、男 の位置を特定出来たのは幸いである。
 なんだ、洗面所の方から声が聞こえるぞ!奴はこの部屋にいたのか?だとすると相当不気味だ!俺が三度寝している間に、誰かが部屋に入って来たとでもいうのか?部屋のオートロックを掻い潜って侵入する方法なんて考えにくい。だとすると、故障?自動的に施錠されるシステムに、どこか不具合が生じたのだろうか?
 そういえば以前、友人に聞いたことがあった。旅行先のホテルの話だ。朝食を食べに行こうと玄関のドアを閉めたら、施錠されていないことに気が付き、フロントに連絡したとのこと。その後、部屋にエンジニアがやって来て修理をしたようだったが、友人のそのトラブルは海外の話だ。ここは日本のビジネスホテルであり、最上階には天然温泉と謳って大浴場があるくらいの設備である。そんなところで、運悪くオートロックが故障した部屋に泊まり、平日の翌朝、泥棒に入られてしまうことがあるだろうか。だとすると、何て運の悪いことだ!
 洗面所にいる不審者が、泥棒であると仮定してしまったのは早合点であるかもしれない。だが、思い設けぬ事態というのは、最悪な方向を想定しておかなくては、挽回する余地が無くなってしまう。
 今の声は間違いなく、洗面台のあるユニットバスからであり、廊下から聞こえたものでは無い。俺と男との距離は、あの白い壁一枚を挟んでいるが、直線距離にしておよそ二三メートル程だ。我ながら間抜けだった。扉一枚介していたのは事実だが、こんなにも近くにいる男の声に聞く耳を立てていたとは呆れてしまう。
 どうする?すぐさま起き上がり、なりふり構わず五六歩先にある玄関へ向かい、その扉を開けて一階のフロントへ通報することだって出来る。それが最善である。泥棒からしてみれば、ベッドですやすや寝ていた奴が、急に廊下へ飛び出してしまえば、いくらか動揺するはずだ。
 だが問題になってくるのは、今現在、枕に顔を沈めて震えている俺に、そんなことが出来るのだろうか?
 仮に、勇気を出して俺が一階へ通報しに行ったとしよう。その間、貴重品を抜かれてしまい、泥棒が逃げ出す可能性だってある。むしろ、その可能性は高い。いや、もっとこの状況を深読みしてしまえば、俺の財布は既に盗られた後かもしれないのだ。不明なことが多い現状、奴を一人にして廊下へ出るのは危険過ぎるし、泥棒からしてみれば逃げ出すチャンスになるだけかもしれない。
 大体、俺が突然起き上がり、廊下へ飛び出しでもしたら、狸寝入りしていたことを白状するようなものだ。
 それにここは確か…六階だ、駄目だ!俺が部屋からばっと飛び出して、非常口手前の角を右へ曲がり、二つのエレベータを待っている間に泥棒は逃げてしまう。二つエレベータのうち、いずれか一方でもこの六階に止まっていることだって考えにくい。
 この作戦にはまだまだ粗がある。まず、泥棒の素顔が分からなくては意味が無いではないか。これだけの至近距離で犯行が行われているにも拘わらず、俺は犯人の顔も見ずに部屋を出て行くことになるのだ。警察に事情を聞かれた際、何も手がかりが無いのであれば、彼らも捜査のしようが無い。「ただただ怖くて、飛び出しました」なんて情けない話を言い出せたものではないぞ。
 それならば、隣の部屋の宿泊客に助けを求めるか?そうか、泥棒を恐れない気概を持つのは、廊下に出てからでも遅くは無い。朝早い時間帯に申し訳ないが、緊急事態だ。勇気を出して、近隣の扉を片っ端から叩いてやり「泥棒だ!」と大音声を上げる行動力があっても良いではないか。わざわざ一階へ行くよりも、この場で救いの手を求める方が安全で確実ではないのか。
 だが、肝心の宿泊客がいなかったらどうする?時刻は八時を過ぎているはずだ。現在の時刻は…不幸なことに、近眼の俺には何時を指しているのかよく分からない。
 平日の朝のホテルは忙しないに違いない。ひょっとすると、大方の宿泊客はチェックアウト済みかもしれない。そんな中、廊下で大声を出していたら、俺は一人騒いでいる若者に過ぎない。
 くそ、だとすれば今すぐベッドから起き上がり、洗面所へ向かうあの扉を勢い良く開けて「何をしている!」と怒鳴りつけてやるか。…目の前にリモコンがある。円卓にはボールペンだってある。果たして、それらが俺の身を守る道具となり得るだろうか?何の気休めにもならないのは、流石の俺も分かっている。小さい頃から、喧嘩沙汰になるようなことは避けてきた人間だ。それに、相手が泥棒であれば、凶器の一つや二つ持っているに違いない。
 いや、奴に立ち向かうためのリモコンやボールペンでは無い。おそらく、直観で思いついたそれらは自衛目的では無い。自分と犯人との間に、何か物的なものを介して対峙しておきたいという、あくまでも心理的なものだ。要するに、俺は手元に何かを持つことで、生身で奴と相対する状況を避けたいのである。問題なのは、それが気休め程度にもならないということだ。
 いや、待てよ。そう言えば、昨夜冷蔵庫に冷やしておいた酒瓶があるじゃないか。今時流行の瓶入りカクテル。あのガラス瓶は使い勝手の良い立派な凶器になるぞ!
 瓶の首を持っていれば、臆病者の俺でも優勢であるのは間違いない。

【NOVEL】体躯の日 第3話|Naohiko (note.com)

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