見出し画像

【NOVEL】体躯の日 第3話

 だが、ホテルの一室で事件が起こった場合、住居侵入になるのだろうか。いや、そんなことよりも、俺が洗面所にいる奴を殴打したとして、それが正当防衛になるのかという疑念が生じてくる。正直、洗面所にロクな私物は置いていない。仮に、未だ何も盗られていない状況で、相手に怪我をさせてしまったら、俺の心はそれですっきりするのだろうか。
 …殴った拍子で奴が死んだらどうしよう。俺の腕力を想定して考える必要は無い。だが、犯意の有無を知らずに奴を殺めてしまった場合、その後の罪悪感たるや、想像しただけでも恐ろしいことになってしまう。相手の当たり所が悪かったというのは、正当な理由になるだろうか?そもそも、奴が泥棒であるという根拠がどこにも無い。
 一日の気力をここで使い果たしてしまったら、その後の本分を忘れてしまいそうで、それまた恐怖だ。
 空き巣狙いに遭った後、気持ちを切り替えて「さぁ入社試験だ」と言って、堂々と面接室の扉をノック出来るだろうか。その一連を想像すると、俺は心の中で、くすくすと笑いが込み上げて来た。極めて簡単だ。むしろ、人をぶん殴った後であれば、アドレナリンが出た状態なので、却ってその方が、面接官には元気良く目に映るかもしれない。概して、これまでの面接試験で、俺に足りなかったのは元気であった。面接の際、決まって元気の無さが目立っていた。おどおどしているわけでは無く、何かこう、健康的な勢いが無い。まぁ、学生の時分を思い返せば、学校の行事には一切関わることが無かった。今思えば、あのコミュニティは“声を出す“という現場に成り得たわけであったし、あのような現場に居合わせたことが無かった故の現状。
性格。
 当時、彼らは元気があるから声を出すのでは無く、声を出すから元気が出ていたのであった。もっと突き詰めてしまうと、自分が声を出さなくてはいけない状況にいることを自覚することで、元気が出る。まぁ、そんなことに屁理屈を捏ねるようだから自覚しないわけだし、気が付く頃には既に遅いのだった。
 そういえば、化粧台の長机に灰皿があったな。酒瓶よりそっちの方が殺傷能力は低い気がしてきたぞ。喫煙室に仕方無く宿泊したのだが、まさかこんなことで灰皿に救われるなんて思ってもみなかった。ばっと上体を起こし、化粧台に置いてある白い陶器の灰皿を右手に持って、真っ先に洗面台へ向かう。その間三四歩で、時間にして二三秒だ。
 思えば、酒瓶は冷蔵庫に入れてある。冷蔵庫を開けて、酒瓶の首を持って、洗面台へ向かう過程には、あまりにもタイムロスが生じて極めて危険だ。
 あれ、昨夜、冷蔵庫に入れたっけ?ベッド脇のナイトテーブルに置いて、一人優雅にらっぱ飲みをしていた。テレビを点けると「あぁ、やっぱり都心の番組は芸人がたくさん出ているし面白いなぁ、これが噂のテレ東か」と、やや興奮気味であったところまでは覚えている。
 そうだ、思い出した。ベッドに零しでもしたら始末が面倒だと思って、窓際の円卓に置いたはずだ。酔っぱらってしまったら、昨日の今日で面接を受けることになってしまうので、結局、飲み切らずに寝てしまったのだ。慣れない高速バスの後だったので、何もしていないくせに身体は疲れており、その状態でアルコールを胃袋に入れるのは危ないと判断して控えたのだった。すると、酒瓶は冷蔵庫にあるのではなく、円卓の上にたんとあるはずだ。
 というか「身体任せに起き上がり、部屋の現況を確かめてしまえば良いではないか!」「いつまでぐずぐずしているのだ!」と、第二第三の人格は、脳裏から愈々急き立てて来る。この場でぐるりと仰向けになって、目玉をぐるぐる動かしてしまおう。四つの白い壁に囲まれた八畳一間、物の配置なんてすぐに把握出来てしまう。お前は枕を目の前にして、素性の分からぬ男にいつまでびくびくしているのだ。言っておくが、俺は多重人格者ではない。現状を別の角度から考えてみた際、どうしても行動しない自分に、もどかしさを感じるのは当たり前だ。だが、そんな安易な自分にも、そのリスクについて今一度言及しておきたい。そう、勇敢さは時として、想定していないことに遭遇してしまい、後のそれは勇ましい果断にはなり得ず、単なる無謀ということにもなってしまうからだ。
 まず、気取られてはいけない。当初、なぜ俺がここまで慎重になっているのか、自分でも分からなかった。うつ伏せの状態から身体を起こす動作には、物音をさせずにこなす自信は勿論ある。だが、これは一考しただけではその危険性に気付くことは難しいのだ。
 要するに、相手は一人とは限らない。俺は、洗面台に犯人が一人だけいる、という前提で考えがちであった。俺が身体を起こしている様子を、玄関口に立っている二人目の犯人に見られてしまうかもしれない。そうなって来ると事態は最悪である。いくら策を練ってみたところで、玄関扉を塞がれてしまっていてはどうにもならない。お手上げだ。
 二人目、それを想定してしまうと事は厄介だ。コメディ映画でありがちな二人組だ。一人は、見つかったら逃げることは到底出来そうも無い太っちょな奴。その片割れは、日頃ちゃんと食べているのかと逆に心配になるくらいに痩せっぽちな奴。いずれも不健康そうな組み合わせは、手本となりそうだ。しかし現実は、泥棒をコミカルに職業としている者はどうもいないらしい。金銭的に困窮した男が、なりふり構わず、失うものが無い故の孤独の悪。
 最悪なのは、相手が一人だと思い込んで玄関を開けてしまい、廊下で見張り役の太った相棒がずんと居たらどうしようか。そう、廊下で二人目が塞いでいる場合だ。見張り役をするくらいであれば、恰幅の良いガードマンのような奴に決まっている。そんな奴と取っ組み合いになったら不味いぞ。
 何にしても、これ以上の想定は無駄である。とにかく情報が足りない。対応策をいくら頭の中で巡らせたところで、仮説ばかりが増えてしまい、いつまで経っても実行に移せやしない。
 そうであれば、身体を反転させて、せめて玄関口だけでも確認する。危険を顧みなくては、話だって進みやしない。だが、リスクは小さく、寝返りを打つかのような仕草は極めて徐にする。玄関口にいるかもしれない二人目の盗人が、どうか間抜けな奴でありますように!

【NOVEL】体躯の日 第4話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?