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【NOVEL】ある男の人生 第7話

 男が抱える問題は、人間が幸福になるような生活様式に意味があった。このような生活に終始しているうちに、彼の生活の今後をほとんど変えるほどの事件が惹き起った。
 平日のことである。男は、普段と変わらぬ朝を迎え、出社した。ところが、会議をしていた最中、胸に強い痛みを感じたのである。経験したことの無い感覚だったが、忍耐強い性格だったので、少し横になれば楽になると思っていた。が、その痛みはやがて背中に渡り、遂には呼吸することも危うくなっていった。側にいた同僚は、彼の異変に気付き、車で病院へ送ったのだが、診察するや否や「ここでは処置出来ない」と判断され、直ぐに大きな病院へと搬送される。
 男の思いとは裏腹で、自身の生命を危うくするものだった。内的な負傷は相当重く、心臓の血管が解離しており、直ちに手術が始まった。男は生死をさまよった。
 駆け付けた妻と子供らは、治療室に入れず、手術の状況を映像で見ることしか出来なかった。一旦、心臓を止め、バイパス手術を始めた時、あまりの恐ろしさに妻は視線を落とし、神に祈った。
 健常者であれば、終末的な気分にさせられる施設において、闇の光は次第に男とその家族を漂わせ、四人を絶望に陥れようとした。我々は安全で、社会にも所属しており、愛情を持ち合わせた、いわば一般的な家族であった。こうした生活が、実は甘皮一枚で成り立っていたこと。男自身、心身にあまりにも無関心でいたこと。加えて、その在り方が、勤め人として時代遅れであったこと。自分が負傷することによって、家計が成り立たなくなることに注視し過ぎていたのは大きな誤りであり、自分が生かされていたことを再び悟るのだった。
 結果、男は闇の引力に懸命に反発する。こんな状況下になってしまっては、会社に莫大な損害と混乱を招くのではないかと心配する。すると、光源は禍々しい闇布となって男を覆うのだった。その都度、男の背にいる妻は、必死になって男を引き止めた。それは、勤め人としての自己敗北を意味するのではないのかと、男は不安に思ったのだが、こうしたある種の防衛が、生きることの苦しみを追求した証拠でもある。仮に、一命を取りとめたとしても、年中寝通しの人生であれば、それは能力の喪失であり、父親を為そうとしない、人間として委縮した存在になってしまうのではないか。彼の価値体系は、やや宿命的ではあったが、ここまで生きて来れたことに突然と感謝していた。同時に、こうした至高経験は、肉体的疾患によって訪れることに大愚と人間の不条理を悟る。
 男には、はっきりとした治療法があった。
 
“我々は信じなければならない”

 自分がどれだけ妥当で有益な人間であっても、これまで経験した世界観によってではなく、少なくとも理論的な輪郭としては、己がいなくとも世界は成り立つ。だが、人生は成り立たないということ。そして、おそらく、その後の人生の歯車は大きく狂ってしまったのだが、それでも人生にイエスというための試練に過ぎない。
 行き過ぎた自己流の価値体系は、時として無知蒙昧であったが、たった今、彼は統合したのだった。
 よって、知恵の足りない光源は、男のもとを去るのだった。

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 男は、一年ほど心身を休めた。当初、半年ほどで復職するつもりだったが、上層部が男の心労をいたわって、大いに休息を取るよう勧めた。生真面目な男は、運動療法を取り入れ、体力の回復を目指すとともに、栄養学を独学で学び、再発防止に努めた。
 社内では、彼の位置を競争者が取って代わる。男は、自分が不在であっても、案ずることなく会社が成り立つことに多少の不平を覚えたが、労働というものが、如何に代えの利く物事かを思い知らされた。
 そうしている間に、世相は急激な速度で変化した。
 我が国を偉大だと言ってのける国家の長を見ていれば、我々はすぐに分かる。周囲の国々は、偉大な国の法律や方針に首を傾げている。それでも、彼らが閉口し続けるのは、成熟しきったことによる大人の沈黙でもある。一方で、ある国においては、暴虐、挑発といえる打ち上げ花火を用いる。野心、功名心などに渦巻く俗世間が、そうした世界情勢にちっとも関心が無いのも、現代の風潮といえる。
 男の生きる時代は、ある種、情熱を失った時代であり、それでも生活から流れてくるものを、用意周到に偏見なく検討すれば、大した苦労がなくても労働にありつける時代になっていた。まず、彼らは仕事で汗をかくことを止めた。忍耐と効率を求めていた頃とは打って変わり、人知れず何かを発信することによって、それが徐々に世間へ知れ渡ると、共感の度合いによって資本が生まれるという、年寄りからすると説明されても受け入れ難い、奇異な仕組みで生活する者が現れた。ある者は、自分の奇行を発信し、またある者は変わった風景を発信することで産業が成立した。
 男の娘もその一人である。彼女は、世の働く人々の行い、裁きを受ける連中を見て、無駄な苦しみをする必要は無いと気付いた。それは、男が少年だった頃、炭鉱夫だった父親とその取り巻きを見て、反面教師にしたのと重なる。
 労働の仕組みを根本から変えるこの産業の中に、知らず知らずのうちに没入してしまった彼女は、自室で行う奇抜な振る舞いを発信することで、そこに一定数の愛好家が生まれ始めた。
 男は、娘の活動の内容を何度も理解しようと試みるが、一向に会得できず、仕方が無いので、彼女の活動を見てみることにしたのだ。
 初見、あまりにも下劣、破廉恥さに頭を痛めてしまったのだが、生き生きとした本人の表情を見てしまうと、今すぐ止めろ言えずにいた。性を売りにする需要と供給が出来上がっていること。極めて個別的な活動でありながら、彼女の生計が成り立つこと。
 そうした社会で流れ出るものは、時として、人殺し、暴力のような罪悪も仮想的になっており、未成熟な人間にとって刺激が強過ぎており、中毒性の高いものに変貌していた。
 家族四人の中で、このことを十分理解しているのは男だけだった。病み上がりの男だったが、この件に関しては、妻に対しても信用ならなかった。
 彼の妻は、娘の動向を以前から知っていたが、病床に臥していた男に別段相談するものではないと思っていた。娘のやりたいことを大いにやらせるのが、親の寛容さというものだと主張するのだった。二人は、珍しく口論になってしまった。
 男の言い分は、彼女は自身の取り巻く環境を十分に理解していないというものだった。
 それに対し、妻は「あなたは時代遅れである」と言った。
 確かに、人間のあらゆる種の悪は、時代とともに変化しており、罪悪は絶えず、この世にあったに違いない。果して、彼女の行いが、抑制すべき罪悪なのかどうか判断し難いのは確かだった。
 これは、おそらく、革命を繰り返す人類において、度々問われているに違いない。人間は、歓喜と同時に混乱を招いていたのだ。
 彼女は、意識的に自分自身を発信しているのだが、その参加度を把握せずに活動している。こうした状況を与えてしまったのは、法律が、俗世間に追いついてないことに原因がある。年配者は、時流を見つめるだけで、若者は知った顔でそれを使いこなすが、極めて浅知恵である。
 なるほど、これでは、学校で学んだことがいよいよ役に立たなくなるわけだ。男の会社にもそういった人間がいるが、有能な人間は、その改善と適応に熱中する。
 淫蕩と罪悪とに沈面しつつある産業に、自分の娘がのめり込んでいるわけだから、それには同情の余地はないではないか!本来であれば、歴史的に見てもそうなのだが、現代の民衆の方が、昔の人間よりも秀でる分野が多いに違いない。だが、それは、その時代に及んでいる、法律の研究、産業に対する、適応、改善そうした複雑巧妙なものを上手に使いこなせるものに限るのだった。多くの人間は、そうしたずる賢い連中の食い物にされてしまう。片手に収まる超高性能な機器を産業とするか、ただの娯楽として使用するのか、それは我々の徳義心にも関係する。
 男は、その危険性を理解していたが、それを周知させる手段が思い浮かばなかった。
 男が若い頃、頻繁にあった突発的な殺人、貧困からの略奪、窃盗、下劣な詐欺といったような罪悪は今や減少し、それにとって代わる新たな犯罪形式が存立してしまった。用意周到かつ情報の取捨に長けた者だけが、巧妙に行動出来るのだった。それは一見、現代において人間は、自己の情熱を沈め、極めて個別的な作業へ没頭しているように思えるが、それを取り巻く環境は、全世界的に成り得る。
 娘の部屋は、生活上必要なものしかなく、まるで独房のように極めて質素だった。そこには、彼女の日々ため込んだ苦労の様子は全くなく、絶望に陥っていた形跡もなかった。

【NOVEL】ある男の人生 第8話|Naohiko (note.com)

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