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【NOVEL】ある男の人生 第8話
男を困惑させるものは、それだけではなかった。仕事に復帰すると、会社の雰囲気が一変していたのである。
まず、社員各々の特定の机が無くなっていた。社内には区画が存在せず、分掌的な体制は廃止され、組織としての集団成員の在り方が無くなっていた。それは、男が休職していた間に彼の立ち位置を代行していた者による考案だった。
この体制に男は面食らってしまったが、時間が経つにつれ、落ち着き払う周囲の様子に溶け込んでいった。また、そうした垣根の無い社風と男の心境の変化が相俟って、彼は若い世代の人間と交流を持つことも次第に増えていった。
週末になると彼は、新参者を数人引き連れ、下町の酒屋で飯を振舞った。その度に、異文化と接触するかのような体験をした。
それこそ、男が少年だった頃に流行った、友情を大切にし、努力を積み重ね、勝利を求めるような漫画は、一切合切廃れ、そういった他人への援助から希望へと導く、人助けのために悪を倒すといったような、一見善の源となっている描写はもはや流行らない。
それはどうしてかと、男は彼らに問いただすと、如何にも利発そうな一人の青年が「善を主張すると、悪が生まれるのであって、平安である術を我々は知っているからです」と冷静に返答し、一同強く頷いた。
男が驚いたのは、それが、如何に悪の助けを借りているかという、逆説的な立場を若い連中が十分に理解していることだった。
抑制、処罰するべきなことは、奨励、普及されていき、逆に悪、懲罰のすべきと思って他人に奉仕するといった希望は、完全なる迷惑行為になりつつあった。こういう人たちは当初、真面目な人として会社に数人はいたものだったが、自己犠牲の覚悟が却って暑苦しいこの時代、男の思想は家庭においても職場においても必要とされていなかった。
むしろ、当初、男の胸に秘めるぎらぎらしたものは無くし、徐々に万人共同の利益のために労苦する軌道修正を求められていた。
男にとって新入社員は、宇宙人、未来人だった。島国同胞の精神が実現されていた男の幼少期からすれば、人とのつながりが、良き分子を生み出す接触点、これを重視し、高く買っていた。男は、自分が駆け出しの頃の苦労話を連中に聞かせてみせるが、空返事しか返ってこなかった。
彼らと似た世人が、どうして過去の産物に無関心になってしまい、むしろ敵視する者まで現れるのかが、男には理解出来なかった。顧客への配慮を根本としていた労働が、どうして遊戯のような文明の利器に劣ってしまうのかが分からなかった。男は、労働に従事するあまり、ある種の視野狭窄に陥ってしまった節はある。
新世代は、挨拶などの礼儀作法を始め、全人類に普遍の規律を避けるため、自分の領土で、自国の規律で、労働が成立することに気付き始め、それが分業よりも遥かに人間らしく労働出来ることを反省し、尚且つ、それが一番楽しく充実のある人生と分かったのだ。尤も、良心と理性を保つことが前提だが…
確かにそうだ。例えば、菓子パン一つ作るとなれば、パンの考案、如何にして生地を作るか、それを練る者、焼く者、それぞれ分業する方が絶対的に効率が良く、生産性が高いに決まっている。だが、延々とパンを考える者、生地の良し悪ししか見ない者、腰の痛みに耐えて、一日中パン生地を練る者、といった具合に手分けしてしまえば、彼らはそれらを単なる作業として捉えてしまう。やがて、自分の労働範囲にしか技術がなくなり、他の分野には関心が無くなってしまい、その完成品すら興味を示さなくなる。結果、労働意欲の減少へとつながる。だが、元来、労働とは所詮そのようなものだった。
その全工程を一人の人間がすべて行うという、一見不効率と思えることが、人間本来の労働の在り方を思い起こすのだった。
逆説的になってしまうが、合理性の欠如が、労働の充実への鍵となっていたことに新人類は気付いてしまい、それは、産業革命以前の労働体系に戻ってしまったようにも思えた。
一考した男は、同僚に対し敵意を抱くような迫害者になるのをやめた。それは、自身を憎悪によって苦しむことを知っていたからだ。
加えて、娘を頭ごなしに否定するのを止め、逆に、増大する彼女の活動意欲を推奨した。男のそうした背景には、真理は勝利を占めるばかりで、時流に合わせ、刻々と変化しているものと譲歩したからである。そのとき、幼心にいだいた改革精神は、ただの世間に対する批判的思考の発達に過ぎないと気が付いてしまう。たとえ、これが、社会生活の基礎全体を破壊しようとする無分別な機械だったとしても、非難を受けるのは男の世代なのかもしれないが、その頃には男の身体は、この世から消滅しているだろう。
【NOVEL】ある男の人生 第9話|Naohiko (note.com)
#創作大賞2024 #ミステリー小説部門
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