「フットボールって、何なんだ?」
前回のトレーニングでの出来事
Genuine Football Academyが始動して、2ヶ月半。30人弱の選手達が、やってきてくれました。
そして、その中の多くの選手が、フットボールを学び、表現できることが徐々に増えてきました。
自分以外の誰かの成長の瞬間を目の当たりにすることは、この立場になってからが初めてですが、とても感慨深いものがあります。
そんな中、
昨日(8/17)高学年のトレーニングで、当アカデミーの選手達にとって非常に難しい課題を提示しました。
我々スタッフ、少なくとも私自身は彼らを信じて、このタイミングでその課題を提示しました。しかし、トレーニング終了後、そして現在も、このタイミングが本当に適切なものであったか、またその言葉選びも伝わるものだったのか、正直、未だにわかりません。
しかしながら、昨日参加してくれた選手達は、
最初は戸惑いながらも、本当に真摯に向き合ってくれて、
自分に覆われた殻をぶち破ろうとチャレンジしてくれたことに、
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
では、昨日のトレーニングについて、少しだけお話しさせていただきたいと思います。
↓
昨日は、「守備」そのものをテーマにトレーニングをするはずでした。
ただ、このトレーニングは、決して欠くことのできない、そして彼らが最も苦手とするであろう要素を遂行しなければ、守れないものでした。
それは、
「コミュニケーション」
当スクールはチームではないため、都城の様々なチームから「上手くなりたい」という思いでやってきます。すでに2ヶ月が経ったものの、日頃一緒にプレーをしていない選手同士が週に1、2回、一緒にプレーするわけです。
そして、彼らの恥ずかしがり屋(彼らだけじゃなく、県民性として多くの人が苦手だと思われる。)も相まって、全く「守備」が成り立たないのです。
それでも、攻撃側にやられ続ける彼らに対し、私は
「このトレーニングも、そしてフットボールも、お互いに喋らなければ守れない。守れないんだよ。恥ずかしさが先行している場合じゃない。勝つために最善を尽くすのは当たり前だし、喋らなきゃ勝てないんだよ。お前らがお前らの中でお互いに「これで守れる」と思えるまで、このトレーニングは再開しない。時間をあげるから、やれることをやってくれ。」
と伝え、このセッションを中断しました。
彼らはそれでも、5分ほど、それぞれで立ちつくしていました。
彼らにとって、本当に酷な課題だったと思います。
それを待っている間は、我々も本当に辛かった。
良いプレーには賞賛を叫び、もう少しのプレーには細かく指示を出して、選手達もそれに、プレーとして呼応してくれていたこれまででしたが、
始動して初めて、お互いにカオスな雰囲気が漂いました。
時間はかかりましたが、選手が選手同士で話し始めました。
このトレーニングの話だけではなく、まず「どんなプレーが好きか」「夏休みの宿題は終わったか」などを話していた選手もいて、
まだまだ、実践で伝わるほどの声量ではないものの、トレーニングを再開したのち、何かを伝えようと努力する姿を見せてくれて、トレーニングは終了しました。
トレーニング終了後、僕の方から、自身の経験を交えながら、以下のように述べました。
きっと君たちは、勝ちたいからここに来て、所属チーム以外の時間でレベルアップしたいと思っているはず。
それなら、勝つために、上手くなるために最善を尽くせ。
みんなが喋るのが苦手なことはよくわかってる。
でも、勝つために喋らなきゃいけないなら、喋らなきゃ、喋れなきゃいけない。チームスポーツである以上、間違いなく外せない要素だ。
目の前で、自分の恥ずかしさが先行したが故にやられたら、絶対後悔するよ。
だから俺達は始まって当初から、お互いに「挨拶」をしようと伝えている。
でも、我々が求めている「挨拶」は決して整った言葉ではなくても良い、君達なりの「砕けた言葉」でいいから、何か声をかけろと。「気をつけ、礼」そのものが挨拶じゃない、と伝えているはず。
「よっ」
「うっす」
「おい、久しぶりやな」
「何してたん?」
何でもいいと。コミュニケーションを始めてほしい、と。
『「挨拶』っていうのは、コミュニケーションの入り口』なんだから。
だから、君たちなりの「挨拶」をまず成立させろ。そこから関係性を築け。
そして、勝つための「関係性」になれ。「勝つための関係性の築き方」を知れ。
選手達は、どう感じたのでしょうか。
正直、想像もつきません。
我々は、「勝つために最善を尽くすこと」を伝えたつもりです。
でも、「苦手なことを強要された」と、思われても仕方ありません。
僕は
フットボールは、「社会の縮図」
だと考えます。
ただ、残念ながら、僕自身それに気付けたのは本当につい最近です。
僕は育成年代の頃から、試合中、「喋ること」に足しては抵抗はありませんでした。
しかし、
自分のテクニックを磨けばフットボールも上手くなる
と思い込んでは、それは覆るはずもないと思っていました。
でも、絶対に自分やボール(またはボールを扱うこと)が主体になっては、フットボーラーとして大成しないのです。
僕が、フットボーラーとして頭打ちが来たのは、まさにこれなのです。
フットボールの構造・ルール上、フットボールがそれを許さないようにできているのです。
自分はゴールに対してどこに立っていて、
味方や相手はどこに立っていて、
だからスペースはどこに生まれて、、、、
相手はどういう狙いで、
それに対して我々はどういう狙いで、
どんな準備と予測が必要で、、、
どこのスペースを生み出してまたは消して、、、
そんなあらゆることがコンマ何秒で変わりゆく状況の中で、自分1人でできることなど、本当に少ない、ということを理解する必要があります。
だから、フットボールは11人いる。
11人いるのがフットボールなのではなく、
フットボールそのものが、「11人だと面白くなるんだ」と言っているのだと思います。
それを、本当の意味で理解する必要があり、それがフットボールの本質です。
味方に生かされ、味方を生かす。
全ての選手が、誰かしらと、何かしらと関係性を築かなければ、成立しない。
自分1人で存在することを
フットボールが許してくれないことを、体で知ること。
これは、決して、
「みんなで闘った方が達成感があって美しい。」
「みんなで喜びを分かち合うのは、見ている側も気持ちいいよね。」
とか、そんな安い価値観の話ではありません。
組織の中の一員だということを本当の意味で理解しないと
「勝てない」
ようになっているということです。
そう考えると、
フットボールのフィールドは「社会」であり、
勝つことは「問題解決の結果」なのだと。
関係性をなくして、「社会」を生きることはできないことを、
我々は、知っているはずです。
こんな反論もあるでしょう。
「メッシは1人でプレーできる」
「うちの子は、少年団の大会で最終ラインからゴールを決められるから、見方を使わなくても勝てる」
メッシが1人で何人も抜く技術があることも、その子の技術もまた然り、紛れもない事実です。
ただ、それがメッシだけで成り立っていることか、それが全ての局面で当てはまることかどうかを見直す必要がありますし、
対峙した相手がその子と拮抗もしくは上手だったとき、どうするのかを考える必要があり、フットボールの本質に気づかなければ、キャリアを苦しむことになるでしょう、私のように。
これは、決してドリブルが悪いわけでもなく、ドリブルは武器として使っていくべきです。そして、どんなプレー選択も、選手個人の自由です。
ただ大事なのは、そのドリブルがフィールド上で、どういう意味をもたらすかということを理解しておくことです。
日本サッカーが世界にあと一歩及ばない、
僕が自身のキャリアの中で及ばなかったのは、
ここにあると考えます。
テクニックそのものや「ボール」をどう扱うかに執着し、それがフットボールを向上させるものだという認識があって、
フィールドは、ボールをそこから出してはいけないただの「箱」で、
箱の中で、相手を上手に交わしていく先に、ゴールがあると。
僕は違うと思います。
日本は組織的だというけれど、
「フットボールに対して」は、自分勝手だなと思うのです。
「ボールをどう扱うか」という戦術や人の評価に対して組織的になって従事してしまっているのでは?と。
大事なのは、「フットボールを制する・勝つこと」なのに。
(ここはまた、今度詳しく書かせてください。)
ゴールがあって、ゴールを取るために計算され尽くしたフィールドがある。
11人対11人が、きっとこのフィールド上を面白くする適正人数であって、
ボールはそれを競わせるための、対象物に過ぎない。
その中で、ボールを上手に扱えると有利に働く、「瞬間」がある。
これがフットボールの構造から読み解くフットボールの真の姿であり、
広大すぎるフィールド上もたらされた「制限と自由」、その上、刹那的に移りゆく状況下に対抗しうるものは、人の数。
その人の数を、有効に、最大限に、最適に、活用する。
「コミュニケーション」とそれを可能にする「関係性」は必須条件。
さらに、ゴールを目指すという前提と自由に与えられた選択の中で、あらゆる項目を精査し、最適な優先順位を表現しなければ勝てない。
まさに目的とそれに対する課題解決のされ方は「社会」そのものであり、
フットボールは「社会の縮図」で、だから奥深くて面白いよね!
ということです。
どんな偉大なドリブラーも、ストライカーも、鉄壁のDFも、
これを潜在的に理解していることを理解しておくことが重要です。
次回のトレーニング、
彼らはどんなプレーをしてくれるでしょうか。
そもそもトレーニングにきてくれるでしょうか。
期待と不安で頭がいっぱいです。
フットボール(社会)と向き合うことは、
複雑で、難しく、時に嫌になるけど、
でも奥深くて、ハンパなく楽しい。
だからきっと、
追求しがい(生きがい)があるのでしょうね。
次回は、
前に述べた「挨拶の意味」について、エピソード付きで紹介できたらと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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