そこに願望はない。念慮がよぎるだけ。
自らの命を断つ悲しい事案が度々起きます。
著名人の場合や大きな事故、事件に繋がるものならニュースになりますが、ニュースにならないものも多く、身近な方をこういう形で失う経験をされた方もいらっしゃると思います。
自死によって亡くなられる方の総数は、ピークだった平成15(2003)年(34,427人)を境に減ってはいますが、まだ2万人を超える数となっています。(警視庁のHPを参照しました)
生きることが当たり前の人にとって、自ら命を断つということへの理解は難しいと思います。
「よほど強い願望があったんだろうから仕方ない」という諦念や、「生きたくても生きられない人もいるのに何やってるんだ」という憤怒や嫌悪に近い感情になってしまう場合もあるでしょう。
しかし、始めから強い“自殺願望”を抱えて死に至るケースは少ないのです。
多くは弱い“希死念慮”から始まります。
大切な人との別れ、仕事での失敗、金銭トラブルのようなある程度はっきりした原因から、なんとなく気分が重い、辛い、苦しいというボヤけた感じまでありますが、始めはただただ暗い気分なのです。
始めの“少し辛い”の時点で乗り切れればいいのですが、そこでこじらせてしまうと、自分が生きている価値を見失ってしまいます。
「死にたい」と強く思うのではなく、「死んだ方が楽になれるかな」「いなくなった方が役に立てるかな」という思いがよぎるのです。
そんな時、「生きたくても生きられない人だっているんだ。頑張れ!」と励まされたり、「家族(親、恋人、etc…)が悲しむだろ!」と説得するのは逆効果です。
もう頑張っている(気にはなっている)んです。
家族(…)にとってもいなくなった方がいいんだとさえ思っているんです。
道に迷っている人に、「迷ってないでとにかく行けよ!」って言う人はいませんよね?
道ならば正解があるので教えてあげれば済みますが、その人の生きる意味には正解はありません。
ここで「生きていたって仕方ない」「死んだ方がいいんだ」という言葉を“自殺願望”と捉えてしまうと、止めるために強く説得する方向にいきますが、そのことがむしろ“希死念慮”を“自殺願望”へと膨らませてしまいます。
難しいんですけど、受け止めてほしい。
「辛いんだね」
でいい。
で、遊びに行くとか、食事に行くとか、そういうのしてほしい。
そして、ただただ聞いてほしい。
その後で、「とりあえず、死ぬまで生きよう」と微笑んでくれればいいのではないかと思います。
で、次の約束をしてください。
具体的でなくてもいい。
実際に会う約束じゃなくてもいい。
繋がってるという実感をあげてください。
強く決意をもって死に飛び込む人よりも、ふらっと死に吸い込まれていく人の方が多いはずです。
それを防ぐために必要なのは強い励ましではなく、優しい繋がりです。
そして、休養と医療的対応です。
私も、いわゆる都市型うつで、希死念慮に駆られた時期がありました。
病休を取り、休んで直すはずが、収入が下がることが原因でますます苦しくなり、必死に職場復帰しました。
その後、自死では生命保険や住宅ローンの団信が適用されない場合があるとわかり、死んではならぬと思い、なんとか生きながらえています。
そういう意味では、私は危ない橋をまだ渡っています。
それでも、少し足取りがしっかりしてきた感があります。
ハイパー児童館ぷれいすの構想をどう捉えるかも影響しているでしょう。
妻に止められてしまった後、しばらくはこの構想さえ心のガンでした。
強い想いをもって為そうとしたことさえできない自分…存在価値…ある?と思い詰めました。
今は妻が止めた意味もしっかり受け止められています。
応援してくれる声も、ある日のある人の応援を境に重圧から希望へと変わりました。
生きていればそのうちできるかもしれない。
そう思えるようになりました。
私が辿っている道はあまり見本になりません。
隣の人が希死念慮に駆られていたら、励まさず、説得せず、受け止めてあげてください。
そして、そっと医療に繋げてあげてください。
当事者として、切に願います。
※支援団体もたくさんあります。ケースによっては医療だけでは受け止めきれない場合もありますが、当事者が自ら繋がるのはいろいろ困難です。
一例としてこちら↓
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