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あの日の銭湯

私が生まれて最初に住んでいたのは、父が独身時代から住んでいた東京都区内の2Kのアパートで、部屋にトイレ(洋式)はあったが風呂はなかった。

そのため、毎晩徒歩3分くらいの銭湯に通っていた。

番台でお金を払うトラディショナル・スタイル(っていうか、当時はそれが当たり前)。
よくコントやドラマである、夫婦が大声でやり取りして石鹸を融通するっていう場面も経験した。
脱衣場にはどでかい体重計と玉剥き出しのマッサージチェアがあった。
風呂上りには瓶のマミーを飲んでいた。

完全な昭和の銭湯(仕方ない、実際昭和だった)。

そして、あの頃の銭湯には、入れ墨ガッツリの完全にその道のオッさんがいたように思う。
けれど、そんなオッさんが何か騒ぎを起こすとか、睨みをきかすとかなく、ごく自然の光景だったと記憶している。

今はオシャレなタトゥーでも禁止している銭湯や浴場が多い。

確かに、入れ墨、ましてや上半身をはみ出るほどの立派な入れ墨を入れた人がいたら、少なくともたじろぐ。

でも、入れ墨の人が筋金入りのヤーさんだとしても、年がら年中トラブルを起こしているわけではない。

ではなぜ入れ墨禁止なのか。

それは日常か非日常かということだと思う。

身体に墨を入れた方を見ることは今では非日常になった。
いや、昔だってそこまで日常ではなかったけど、今よりは見かけることはあったと思う。

そして、銭湯に行くことも。
普段は家のお風呂だけど、特別に行くようになった銭湯は非日常の空間になってしまった。

つまり、日常の銭湯で毎日会ういつもの入れ墨のオッさんは、非日常の銭湯で会う世にも珍しい入れ墨のオッさんになってしまった。

見慣れない上に「極道」みたいなイメージの入れ墨のオッさんは排除されてしまった。

そして線引きが難しいために、オシャレタトゥーもまとめて排除されてしまった。

それがダイバーシティに合致するのかな?

私個人の意見としては、銭湯に入れ墨くらいいいじゃん、です。それが全身だとしても。

なんで入れ墨 or タトゥーを入れてるかなんてどうでもいいじゃん。その人の勝手。

だからってそれでその人の行動を制限する権利というか大義名分って、入れ墨を入れていない側の人たちにあるのかな?

排除する姿勢がますますカベやミゾを作って相互理解を難しくしていく。

まずは包摂。それをインクルーシブと言い、さらに形にしたものがダイバーシティだと考えている。

銭湯に入れ墨、もう少しでも受け入れてあげられないかな。


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