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人生の後悔

生きていれば後悔はつきものというのは、誰もが首肯することなのだろうか。

あの時ああしておけばよかった。
あの時ああしなければよかった。

私のような凡人がぼんやりと人生を振り返ると、なんとなくそんな「あの時」や「ああする」が頭に浮かんでしまう。

でも、じゃあ実際に「その時」に「そうした(しなかった)ら」どうなっていたのか?を考えるに至った時、結局今の人生に至るべく選んだあの時の選択肢は、大正解かはわからないけど、悪くはないかもしれない、くらいは思える。

選択肢の選び方によっては、今とは違う仕事をしていたかもしれない。
とすれば、今抱いている居場所づくりの構想には至らなかったかもしれない(至らない方がよかったという可能性はありつつ)。

選択肢の選び方によっては、結婚のタイミングが違っていたかもしれない。
とすれば、家族の形や近所付き合いの形も違っていたかもしれない。

選択肢の選び方によっては、妻に出会わなかったかもしれない。
とすれば、今とはまるっきり違う人生になるのは間違いない(未だ独身という可能性だってある)。

今、伊坂幸太郎の「PK」を読んでいて、「タイムパラドックス」の話が出てきたからそんなことを思うのかもしれない。

「過去にタイムトラベルして、出産前の母親を殺害しちゃった場合とかのことですよね。親が死んだら、自分は生まれてこない。あれ、じゃあ、今ここにいる自分はどうなっちゃうの?という矛盾ですよね」
伊坂幸太郎「PK」講談社文庫 p172

その矛盾を起こさないための手順として、矛盾を起こす行動を起こさせないという考え方がある一方で、過去において大きな状況の変化が起きた時点で新しい世界に“分岐”するが、タイムトラベルから戻る世界は“分岐”しなかった元の世界なので、タイムトラベルによって起きた状況の変化に影響されない、というような説明が続く。

とにかく、大きな選択肢が現れた過去に戻って別の選択肢を取っていた世界線が別にあるとしたら、ちょっと覗いてみたくはあるな、とは思う。

一方で、その世界を本当の人生としてやり直したいかというと、そうは思わない。

やはり、今幸せに生きているということは、取ってきた選択肢が間違っていなかったことの証左であるとまとめるのが吉ということかと思う。

それは、生きることが苦しくて不幸とさえ思える時間をくぐり抜けたことを含めてもそう思う。

生きていれば、必ず取った選択肢が正しくなる時機がくるということなのかもしれない。

過去に取った選択肢にばかりフォーカスを当てると気持ちが落ちるけれども、今を生きることにフォーカスを当てれば、どんな選択肢を正解にしてしまうことができると信じたい。

なんて締めようと思ったが、ひとつだけ取り直したい選択肢がある。

高校生の時にスポーツドリンクを過剰に摂取した過去は精算したい。
あのスポーツドリンク(2日で3Lペース)が全て麦茶だったら、今デブじゃないかもしれない…

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