文章で伝えるとき、いちばん大切な感情を、僕はちゃんと伝えられるだろうか。
私がファンとして推している田中泰延さんがファンとして推すライター・patoさんの新刊「文章で伝えるとき、いちばん大切なものは、感情である。」を拝読した。
表紙をめくってすぐ、この本が私にとって大切なものになると確信した。
「書いて伝える」ことを、私も選んでいる。
ページを繰って「はじめに」で触れられて以降、本著で一貫して書かれていること、それは絶望である。
この一文が、私にとって希望になる。そう思えた。
そして「文章を書くときに直面する絶望」は次の三段階だと説き、それに沿って論は進む。
まさに自分が抱えている絶望そのものである。
その絶望とどう付き合って書くのかを読み進めたはずなのに、腹落ちする前に苦しくなってきた。
patoさんのくぐり抜けてきた絶望を垣間見ればそれだけ、ふつふつと感じるものがある。
自分にはまだ絶望が足りない
他事に追われて
家計が気になって
時間がつくれなくて
疲れてて
眠すぎて
絶望する前に顔を背けている
絶望に至らずに逃げている
絶望するほど努力しない
そんな自分を何か別の視点から冷めた目で見ているような感覚に襲われた。
そんな黒沢くんの言葉を借りれば、絶望の深さなんて他人と比べるものじゃないのかもしれない。
でも、他人と比べるまでもなく、私には絶望が足りないのだ。
これでも書くことに自分を賭けようくらいには思っている。
にもかかわらず、たどり着くはずの、くぐり抜けねばならないはずの絶望に至るほど書けていない。
そもそも「書けないという絶望」で立ち止まっているのだ。「届かない」「伝わらない」という絶望にはまだ遠く至らない。
もっと書いて、もがいて書いて、「書けないという絶望」ともっと向き合い、取っ組み合い、手を取り合い、その先へ進まなければいけない。
そこで足りないのが、やはり感情なのではないか。
感情をあまり書くと引かれるかも
感情をあまり書くと恥ずかしいかも
感情をあまり書くと読まれないかも
そんな誤解と逃避をまず取り払わなければ。
田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」で読んだ「事象と心象が交わるところを書く」ことにも通底するではないか。
以前取り掛かった「毎日欠かさずnoteを書く」とかいうやっつけでやったつもりの書き殴りではなく、産みの苦しみをくぐり抜けた感情の乗った文章を書く努力を、せめて努力をしなければ。
なんでそこまで?
なんででしょう?
書きたいから、としか言いようがないではないか。
じゃあ、書け!
(じきるう @zikilluu さんのXより)
書くしかできそうなことがない私は、絶望の淵に至るべく、書かなきゃいけない。
絶望の底に堕ちてでも、私は書く。
「文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。」を何回も読んで、「読みたいことを、書けばいい。」も何回も読んで、書く人になる。
なりたいではなく、なる。
今夜、絶望に飛び込むことにする。
絶望の底に堕ちて立ち上がれなくなるかもしれない。
それでも飛び込まなきゃいけない。
文章を書く自分を目指して。
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