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監督の愛人・推敲版

私ひとりを呼び出すために、監督はわざわざ部員全員のグループチャットを使う。
ふたりのスマホが同時に通知を知らせ、同室の瑞穂が息を飲むのが分かった。
寮のあちこちでそれぞれに時間を過ごしていただろう仲間たちにも、同様の表情が浮かんでいるのがたやすく想像できる。

「あー、ここのところ続くなぁ。き、昨日もあんなにしてあげたのに」
精一杯おどけた風に言って立ち上がる。
どうせ来るのだろうと練習着から着替えずにいたので、そのままでも出かけられる。
もう、鍛練の汗とはまるで違うもののしみこんでしまったジャージウェア。

「じゃ、行ってくる。どうせ朝帰りだから、待ってなくたっていいからね」
「アリサ!」
ドアに手をかけたところで、感極まった様子で瑞穂は叫んだ。
「あの、みんな、ちゃんと分かってるからね、アリサの気持ちは」
「うん、大丈夫。負けないから」
「ごめん、私たちがもっと強ければ」
「大丈夫だったら!」
彼女から目をそらし、突き放すように言った。
両の瞳を潤ませる瑞穂を見ていると、自分も心がくじけてしまいそうだった。
「私が自分で選んだことだもの。それよりもチームのことはしっかりね、キャプテン」
まだ何か言い募ろうとする前に、逃げるように廊下へ駆け出した。

私たちの監督は最低の下衆男だ。
本当は監督と呼ぶのさえためらわれるが、名前を口にするのはもっと汚らわしい。
指導者としての手腕は誰もが認めるしかないだろう。
わが校に三顧の礼で迎えられて10年、それ以前の低迷が嘘のような全国大会常連校に躍進させ、優勝も二度果たした実績はまぎれもない。

私だって、テレビでこの学校の活躍を見て憧れたクチだ。
スポーツ推薦枠で入学を認められ、天にものぼる思いだった。
メディア向けの外面に騙されて、あの男に幼い恋心を抱いてさえいたかもしれない。
それもあの男の本性を知るまでのことだ。

まったくの性犯罪者、少女虐待者だった。
指導にかけこつけて、あるいはもっとあからさまに、どれだけの選手たちが毒牙にかかってきたか知れない。

練習中、いきなり名指しで呼びつけられ、下着姿や裸になるよう命じられることなど、日常茶飯事だった。
いかにもトレーニングの成果、肉のつきかたや各所のバネを確かめるような顔をして、私たちの身体を見つめまわし、手でもてあそんだ。

指導者としての手腕は確かに一流だ。
そのようにして部員の肉体を味わったあとで提示される個人メニューには、目をみはる効果があった。
そのことは、私も認めないわけにいかない。
どうしてあれほどの知識と論理性が、愚劣な人間性と共存できるものなのか。

狡猾だったのは、ある一線は徹底して守ったことだろう。
選手たちにしてみたら、約束された成長と勝利と引き換えに、なんとか耐えられるレベルぎりぎり。
学校にとっても全国区で名を売ってくれる指導力と秤にかけて、目をつぶってしまえる「たかがセクハラ」というわけだ。

ふざけてる。

一階に降りると、数人の1年生が玄関前広場に集まっていた。
ラウンジで話し込んででもいたのだろうか。
私が近付くと、誰もみな気まずそうにうつむいたり、顔を背けたりした。
私の立場はもう彼女たちにも知れわたっている。
どう対していいか戸惑っているのは知っていたが、それにしてもいつも以上に腫れ物扱いだった。
何かあっただろうか。
いぶかしんでいると、ひとり、図抜けて背の高い、私とそう変わらないくらいの娘が意を決したように進み出た。
確か、林野さん。
林野カナ。
一年生の中のリーダー格だったはずだ。

「い、行ってらっしゃい、ビッチ先輩!」
私を直視はできないまま、林野さんは真っ赤になって叫んだ。
あまりのことに唖然としていると、彼女の後ろから他の1年生たちも続いた。

「配信楽しみにしていますから」
「いっぱいいやらしいところ見せてくださいね」
「もう女の子として最低っていうような」
「エロエロのメス顔で」

淫語をまじえた嘲笑とも煽りともつかない言葉を必死の形相でぶつけてくる。
どうしていいか分からず、私はしばし固まった。
ほんの3分足らずのことだったと思うが、ずっと長い時間のことに感じた。

「すいません! すいません! 監督にこう言えって」
同じような必死さで、林野さんが頭を深々とさげ、他の娘たちも続く。
そのまま土下座でもしそうな子、先輩に対して言ってしまった言葉に恐れおののく子、もう涙で顔中くしゃくしゃにしてしまっている子もいる。

「わ、分かったから」
あの男の差し金なのは、言われなくても察しがつく。
そうでなくても、恐縮しきった後輩たちに怒りも悲しみもぶつけられたものではない。

うすら笑みを浮かべる監督の顔を思い出し、歯を食いしばりながら、やはり考えずにはいられない。
今の言葉のどれくらいが彼女たちの本音だろう。
監督と愛人契約を交わし、夜な夜な肌を重ねに出かけていく3年生のことを、正直なところどう思っているのか。

胸に芽生えた疑問を打ち消す。
身を犠牲にしても守るべき彼女たちを疑ってしまったら、何のためにこんなことをしているか、見失ってしまう。

「あ、あの、キャプテン」
「キャプテンは瑞穂だよ」
できるだけ軽い調子を心がけながら言って、振り切るように玄関から飛び出した。

「私たち、キャプテンには感謝しています。本当です!」
鳴き声のような誰かの叫びが背中から追ってきた。

昨年夏。
チームのキャプテンとなった私は、部員たちの総意をとりまとめ、監督の解任要求を学校につきつけた。
どれだけの勝利と引き換えにだろうと、もうこれ以上あの男に好きにさせておくわけにはいかないと思ったから。

結果を言ってしまえば、私たちは敗れた。
学校も保護者会もOG会も、あの男を擁護するばかりだった。
廃部まで賭けてもと思い固めていたのは結局私ひとり、みなをまとめきる力はなかったということなのだろう、仲間たちもひとりふたりと脱落していった。

それでもただひとつ、あの男は譲歩案を出してきた。
それが今のこの愛人契約だ。
私が従順に奴に従うかぎり、他の部員には一切手を出さないからと。

私はそれを飲んだ。
何もかも元の木阿弥にするよりはと。
せめて他のチームメイトたちを守りたくて。

その決断を悔いはしない。
今も、これからも。

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