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記号論・言語学と意識・クオリア研究の関係性について(諸事情により期間限定有料記事)

(本文は3500字くらいです。参考文献が結構多いので。。。コメントあればよろしくお願いします。)

■意識研究の変遷 ー 意識研究の第一世代(科学的探求の開始)と第二世代(意識の神経相関NCCの探求)

私たちが主観的に経験する意識は、哲学においては、古くから思索の対象であった。そこでは、自分や他人の意識の本質や、その構造を考えるために「言葉」を道具として主に用いてきた。言語は思考の抽象度を高め、文明の発展に大きな貢献をしてきた。個人においても、意識経験や思考の内容は、言語のおかげでより高度なレベルに達すると考えられてきた。実に抽象思考の産物として、近代的な意識の哲学的探求が始まったとも言える。17世紀の哲学者・デカルトの言葉「Cogito ergo sum」は「我思う、ゆえに我あり」と訳されるが、「私に意識があることを疑うことはできない」という意味でもある。近代哲学における意識の議論には、脳や体の解剖学からの知識を取り入れた議論もあったが、言語による思索が中心的な位置を占めた。

20世紀に入り、第一世代の意識研究と呼ぶべき流れが生じた。フェヒナー、ヴント、ジェイムスらは、実験をもとにした心理学を確立し、主観的な知覚・注意・記憶などの研究を進めた[1]。これらの知見には、現在に通じる意識の理論の考えの元になっているものも多い。たとえば、意識と注意は主観的には分離不可能に思えるかもしれないが、ジェイムズは実験事実を元に「意識と注意」の関係性について考察している[2]。同時期に、言語学・記号論は、パースやソシュールによって基礎が築かれた。その後、1920年頃から盛んになった行動主義により、直接に観察・操作できる入力刺激・出力行動のみを科学の対象とすべき、という考えが支配的になった。その結果、直接に見たり操作したりできない「意識」は、最も強い批判にさらされた。意識研究は心理学の隅においやられ、しばらく科学の表舞台から姿を消すことになった。一方で、言語学・記号論は、言語や記号の構造的な研究に向かい、それらがどう主観経験に関係しているかは問われなくなった。外部から見ると奇異に感じるかもしれないが、意識・クオリアの研究と言語・記号の研究は、その後、学会などでもあまり交流がないまま現在まで来ている[3]。

行動主義の影響は、1970年以降の「認知革命」により徐々に弱まってきた。第二世代の意識研究は、1990年以降に発展した脳イメージング技術により、大きな流れとして確立した。脳イメージングにより、言語報告が可能な健常者の脳活動を、様々な意識状態において計測できるようになった。たとえば、視覚入力がなく体が動いていない睡眠中において、夢を見ている時と夢を見ていない時の脳活動を比べる、という実験などである[4]。

図1 ルビンのツボ

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