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なぜオーストラリアの大学では、トップの学生だけが卒業論文を書くというシステムをとっているのか?

つい最近、日本の大学で教授をしている人との会話で、「人によっては、30人の学生の卒論を担当している人がいる」という話を聞いた。オーストラリアで研究室を主催しているわたしからすると衝撃の話だ! 単純に「そんなことしたら研究室が崩壊する!」というのが私の最初の印象。

過去に、私が知っている有能な研究者の人の中にも、大学で職をとった途端(助教・准教授も含め)突然パタッと英語で論文を出さなくなってしまう人が多くいた。海外で活躍していた優秀な研究者の中に、日本の大学に帰った途端に、世界からは見えなくなってしまう人がいること。それは日本の大学が抱える多くの問題の一つなんじゃないかと思う。

この問題について私の考えをまとめました。


オーストラリアのHonours システム

オーストラリアでは、基本、学部の4年生の時に、日本の卒論研究に相当する研究ができるのは、3年生までの成績が上位 X %の学生に限られる。の X は学部・大学によって異なる。Monash大学の心理科学学部場合は、50%くらいかもしれない。その辺りはコロコロ変わるのでわからない。

なぜ、オーストラリアの大学では、トップの学生しか卒論しないのか? なぜ、日本の大学では4年生全員に卒論をさせるところが多いのか(しかも激烈な就職活動とかをやりつつ。。。)。

トップの学生だけが卒論をやる利点とその問題点を考えてみたい。

やる気のない・ある学生の側、教授側の視点で考えてみよう。

卒論・卒研やる気のない学生側の視点では?

大学の1,2,3年をやってみて、高校までの授業と違って専門的な知識を得るにつれ、自分が入学当時に思ってたやりたいこととは違うことが見つかった場合、全く卒研などやる気がしない場合もある。

これらの人は、会社を設立したり、バイトの延長でクリエイターになったり、色々とやっている人が多い。そういう人にとっては、「卒研なし」卒業であっても、大学卒業の資格さえ貰えればそれで良い。短大の卒業のようにみなされるだけだ。そういう人にとっては、卒研・卒論しない方がメリットが大きい。

卒論・卒研やる気のある学生側の視点では?

では卒論・卒研をやりたいと思っている学生は何をかんがえているのか? そういう子の中には、大学で一度研究を本格的にやってみたいという子が多いのではないか? 

研究活動とは、将来大学教授になるつもりはなくても、さまざまな職業で役に立つ要素を学ぶことができる。要は、1)自分の興味があるトピック(e.g., 脳と意識の関係とか!)を選んで、2)それがどのように今まで研究されてきたかをサーチし、3)どういう研究をやったらトピックが深まり新しいことが見つかりそうかを自分で考え、4)それを実験に落とし込み、5)検証するという作業だ。

もちろん、1年間で1−5を全部自分一人でできる学生はほとんどいない。4,5は特に時間がかかるし難しい。1や3については、私のような指導教官のガイドがないとかなり難しい。2は大体の学生ができる。2は将来ブログとかを書くのにも役立つ。

おそらく、このサイクルは、企業におけるビジネスとかと似ている部分が多いはず。

そしてこの研究サイクルは、自分の将来に合うかを試してみたいという子が卒研・卒論をやりたい子の多くだろう。Monash でも卒研をやった50%くらいしか、直接には大学院に進まないのではないか? 

大学院に進むほどにまで研究を気に入るかどうか、を試そうとすれば、本気で研究者・教授とやりとりしないと意味がない。その場合、少数の学生を見ている教授の下で卒研やるほうが意味がある。だから、本気で卒論・卒研をやってみたい子にとっては、少数だけが卒研・卒論するというシステムの方がすばらしいという結論になるだろう。

オーストラリアと日本の大学システムの比較

大学3年生までの内容は、日本でもオーストラリアでも、だいたい、授業出て、テスト受けて、ある程度の点数を取る、という活動。(プラスで実習とかもあるけどそれはかなりマイナー)。つまり、そこまでができました、という証明はそれはそれで価値がある。

オーストラリアの大学生は、卒業研究をできた子は「Honours」というお墨付きがもらえる。学位に+がつくのだ。そのため、大学に入っても、それで終わりじゃない。1,2,3年でちゃんと真面目にやらないと、卒論を書けるレベルとみなされない。

日本でも、Honours がある学生とそうでない学生、というラベルがある方が、企業とか社会にとっても評価しやすいんじゃないですかね? 

日本では、基本、全員が卒論をやるっていうのがDefaultのようだ。研究室によっては、なんの指導もしないとか差はありそうだ。私が京大を卒業したときは、卒研はしたけど、卒論書くかどうかは、自由だった(理学部)。ちなみに、私がアメリカにいたときは、卒研・卒論システムはなかったし、今も無いと思う。ヨーロッパでは、完全ほったらかしの場合が多いと聞いたがよくわからない。オーストラリアは、基本、イギリスシステムのマネが多いので、イギリスとオーストラリアはかなり似ているのではないだろうか?

大学教授(研究者主催者)側からの視点では?

卒論のテーマを考える・準備するコスト、実験に関わるコスト(素人の学生にさまざまな研究技術を教えるための時間・金・人的資産)、さらに、書かれた卒論の評価に関わるコスト、を考えると 絶対に 一人の教授が30人の卒研生を見るのは不可能だ。だから、多くても3人ぐらいしか卒研・卒論は見たくない、見れない。

私がこの10年で実際にMonashで卒論・卒研を指導してきてみての感想

Monash大学は世界でも結構高いランクの大学だ(QSとかTimesで50−70位、日本の京大くらい?)。それでもHonoursでラボにくる子のレベルはメチャクチャ差がある。

私はいつも本気のプロジェクトしか与えないが、それがモノになって学術論文になったのは、おそらく今年4本、去年1本、一昨年1本だ。2013年くらいから毎年大体2−3人見ているから、大体3割くらい。これはおそらく平均の打率なのではと思う。(分野にもよる)

最近日本の研究者と共同研究をすることが多い。日本の学生は、頭は良い子が多い。だが、英語が不得意(そりゃ、ネイティブレベルや海外で高校・大学でやってきた子との差は非常に大きい。これについてはそのうちブログで書くかも)。なので、卒論も日本語の場合が多いだろう。そうなると、卒論研究を英語論文としてPublishするのが非常に大変だ。英語論文じゃなくても価値がある分野の場合は、この議論は当てはまらない。

そういう卒論のために割いている時間・労力を考えると、日本で大学で職を得た途端に世界からは見えなくなってしまう有能研究者が続出してもしょうがないと思う。他にも理由はあるとは思うが、大きな一端なのではないか?

結論

日本の大学で、卒研・卒論をできるためのハードルを上げたらどうか? 全員がやらなきゃいけない、って誰が決めたのでしょう? 一回その前提を疑って見たほうがいいかも。教授も学生も、みんなが幸せになるのではないか? 

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