道しるべとなってくれるものは、すぐそこにあるから。
深夜に近い、仕事帰り。車を走らせていて、ふと気が付くと、上空を、雲が波打っていた。
雲と月のコントラスト、絞り染めを思わす雲のうねりが圧倒的だった。
私の唇から、ため息が漏れる。
急いで車を走らせて、家に戻った。
庭に備え付けてある、ホットタブの蓋を開けて、お湯加減をみる。
すごい、パーフェクトな温度!夫よ、ありがとう。
湯舟に浸かって、空を見上げるころには、空模様もずいぶんと変わっていた。
一瞬として、同じ空模様はない。ちょっと目を離した後には、以前の景色は消えている。刻々と変化する空は、一見すれば代わり映えしない日常を、早送りでもしているようだ。
この季節、北カリフォルニアでは、乾季の始まったこの季節に、こんなに雲が、空に広がるのは珍しいこと。しかも、その日は満月だった。
こんな空模様が広がる日には、息子が3歳だった、あの日を思い出す。
アメリカの田舎町の空は、果てしなく広い。
スーパーマーケットの駐車場に、車を止めて下りた。その途端、いつもはシャイな息子が、雲が波打つ夕焼けの空を、からだいっぱいで仰いで、腹の底からの感嘆の声をあげたのだ。
その声を、今でも覚えている。彼の心の底からの驚き、Wonder.…。
彼の声を聞いて、私は、また山に戻って暮らそう、と決めたのだった。
オフグリッドの山の生活から離れて1年、山のふもとの町での暮らしに、合わない服を着ているような違和感をずっと抱えていた。それに、心の中で、終止符を打った瞬間だった。
自然の様相は、いつも私たちの心を映し出してくれる、鏡のような存在だ。自然そのものには、どんな形であっても、何の意味もない。意味をつけるのは、私たちの側。だから、素直に私たちを映してくれる。
それは、全面的に私を受け入れ、その懐の内に、ただ、ただ、共感してくれ、寄り添ってくれているかのようだ。
私が育った実家からは、小高い山が見えた。
小学校の帰り、家へ向かう角を曲がると、その山が私の正面に現れた。
悲しいことがあった日には、山も悲しそうで、嬉しいときには、一緒に笑ってくれているようで、その不思議を作文に書いたことがあったっけ。
その山が、私の日常にあったことで、あの頃の私は、家の玄関を開けて、外の世界へ 出て行くことができたように思う。知らず知らずのうちに、いつも山が、私に向かってうなずいていてくれているのを、確かめていた。
それでいいんだよ、と。
満月の夜、私は、いつまでも、いつまでも、お湯の中からモノクロームの、でも生き物のような、空を見上げていた。
自分の内を見るように、
流れる雲が、月の光を遮る様を。
月が、そこからふたたび現れる様を。
私はきっと、この夜のことも忘れないだろうと思う。
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