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サインー大切な人からのメッセージ#9信頼

それから4,5日してから私は家族と一緒に町へ、買い出しに出かけた。半日がかりで必要なものを何件かの店をはしごして買い終えると、私はくたくただった。

車のシートに沈みこみ、帰途についても気分の悪さは拭えず、頭痛まで始まった。私は我慢しきれず、山小屋まであと数分というところで、車を降りた。山の中を歩き、風に当たりたくなったからだった。

私は砂を背負った感じのする、自分の身体を そばの石の上に腰かけさせた。
目を閉じて深呼吸をする。小鳥のさえずり以外には何も聞こえない場所で、心を澄まし、想像の中の、透明な湖水の水面を見つめた。

次第に身体が軽くなり、自分の影がだんだんとひとつになっていくのがわかる。ゆっくり、ゆっくりと、音のない、時間のない世界が私を浸した。

私は心地よさそのものになりながら、どこかで驚いてもいた。

この感じ、山から受けるエネルギーが、火事になる前のものとほとんど変わらないことに。

目を開けば、黒い大地の広がる景色。これほどまでに様相を変え、私に悲しみをもたらした山の姿ではあっても、今なお、私を癒してくれるパワーを秘めていることが不思議だった。

姿形は変わっても、それ自体が持つエネルギーは何も変わりはしないのだろうか?それは影響されないのだろうか?

私は空を見上げた。いつもなら、仰いだ青空のはしっこに緑の梢がのぞくのに、今は黒くささくれた枝がとがって見える。火から逃れた木の葉がカラカラと乾いた音をたてた。火事の後始末に忙しくて、まだゆっくりと山を見て歩いてはいなかった。

私は立ち上がり、山道をそれて森の方へ足を進めた。山小屋のある、焦げた大地とは対照的に、そこには白い灰の浅瀬が続いていた。

灰でふわふわした地面は歩きにくかったので、私は手にサンダルを持ち、はだしの足を白くさせながら、その感触を味わった。

いたるところで木が倒れているかと思えば、なかにはまだ、わが身を煙突のようにさせて、くすぶり立っているものもあった。
大地のところどころに穴が空き、その中にも、幾つもの小さな穴が 迷路のごとく土中へと続いている。
張り巡らされた木の根の跡で、なかには私がすっぽり入ってしまえそうな巨大な穴、炎はこんな地中にまで追いかけて、大樹を消滅させてしまったのだ。

豊かな腐葉土も灰となり、銀色の尾をしたリスはもう枝を駆けてはいなかった。

焦げた木の皮に触れると、それはまるで発砲スチロールのような感触がして、手の中で崩れた。

たとえ今回の山火事が、他のすべてと同じように必然であるとしても、今の私には見えるものしか見えず、そしてそんな自分をゆるしていた。私はその場に立ち尽くしたまま、先日、娘に提案したように、自分の感情をしばらくシャボン玉にして飛ばした。

どこかで鳥の声がする。いったい何をついばみに来ているというのだろう・・・。

けれどその森を過ぎると、今度は多くの木がまだかろうじて本来の色を保ち、葉を揺らしている場所に行きあたった。下の方の枝は火にあぶられて枯れ葉のようでも、空に近い部分は緑が残っている。
こんなふうに、場所によって燃え方はまったく違っていた。

山小屋までの道のりはまだあるものの、私は車を下りて本当に良かったと思った。頭痛は収まり、気分も良くなっていた。そして山のありのままの姿を改めて認識し、自分の感情を開放したことで、私は心なしか、自分が軽くなった気がしていた。

と、その時に私はふと気がついた。

今まで山を歩いて来て、どこからも「恐怖」という波動をまったく受け取っていなかったことに。

「悲しみ」は私のものだった。「淋しさ」もそうだった。

「恐怖」も私が勝手に「山火事」という出来ごとから思い浮かべ、倒れた木や無になってしまった草花に、重ねたにすぎなかった。
私のこれまでの経験に基づいた感情によって、火事を見、判断していただけだったのだ。

先入観や、物事に対する思いのパターンを取り払い、真っ白な目で在りのままを見ることができたとき、いったい何が起こるだろう・・・?

山は・・・、
この山は何にも動じることはなく、泰然としていた。

こうなることは、とうの昔から知っていたとでも言いうように、その在りようを眺めていた。
木々は自らの姿を受け入れ、火事の前と変わることのない静けさの中で生きていた。それは、どんな現われにも抵抗することなく、委ね、時の流れに身を任せることだった。

冬の次には必ず春が来ることを知っている賢さだった。

そんなはるかに広い視線の中にあって、私一人が小さくなって悲しんでいた。

その姿は愚かだった。

再び山道に戻り、裸足のまま乾いた土の上を歩いた。傾きかけた夏の日差しとともに風が私にまとわりつく。踏みしめた大地に今にも溶けていきそうな気がして、足を止め、目を閉じた。
自分とまわりを隔てているものが不自然で、私はいつのまにか、着ていた服を全部脱いでしまった。

間もなく私の意識だけが、山の中へと沈んでゆき、躍動する息吹となって山中を巡った。滝が作り出す川の流れを追い、風のように緑の木々の間を抜け、大きな岩に出会った。すべてはきらきらと輝いて、その輝きの中に留まれば、意識さえも、透明の中に溶けていくようだった・・・。

風が私の頬を撫でる感触で、目を開けた。

焼けてしまった森、草や木に感じていた悲しみが過ぎ去り、感情や思考を通してではなく、事実をありのままに「見る」ことは、私には初めての体験だった。だから、何が起こっているのかが分からなかった。

けれど、その視点の転換が、私のエネルギーを循環へと導き、自然と感応し、山とひとつとなるほどに、私の心を開いたのかもしれない。

何だろう・・・、喜びが溢れる。

何かに対する信頼が、私の中心で腰を下ろしたのを知った。

私はその何かを抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。

しばらくして、その何かは自分の「人生」だとわかった。人生への信頼が、私の中心で、腰を下ろしたのだ。

次女を亡くして以来、失っていたものだった。

山の視線と共にあることで、私は初めて、現れているものを 理屈なく受け入れることが、どういうことなのかを、知った。

自分だけが特別辛い思いをしているのではなく、運命のいたずらでもなく、すべては、今ここを過ぎ去っていくものでしかなかった。
私が手放さなければならないものが、過ぎ去っていくだけなのだ。
私はそれを追いかけて、泥だらけにしてはいけない。ありのままを見つめ、感情を味わい尽くしたら、潔く過去のこととして、解放しなければならない。

そうすれば真っさらな「今」があることを見つけるだろう。

もう過去の同じような体験から呼び覚まされる感情も、先入観も、関係なく、真実だけが私を人生へと導くだろう。

前に起こったことと、今の状況を重ね合わせ、不安や恐れの沼に自ら溺れるのは、幻の世界に自分を置くことでしかないということを、私は自分の意志で、これからも、知り続けていくのだと思った。いつでも、この、山の視線に戻って。

周りの状況によって、自分が脅かされたり、打ちのめされたりすることなど決してないのだと、山は語っていた。だからこそ、今なお私の心と、身体を浄化し続けることができるのだと・・・。


谷を見下ろしながら緩やかなカーブを曲がり切り、山道を下って行くと、じきに私を迎えにきた、子供たちの私を呼ぶ声が聞こえてきた。
私は大声をあげて、歌うようにそれに応え、思わず駆け出していた。


(つづきます)


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