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割り切る努力はあなたの義務です

こんにちは。今日は「割り切り」について。

割り切れよ、でないと……(以下略)

唐突なガンダムネタから始まりましたが、割り切りというのは結構大事なことだと私は思っています。

これは単純に一度失敗したものは諦めるのが重要、というわけではなく、割り切れるところまで状況を理解すること、そのための活動をやり切ることが重要だという考えです。

例えば会社のルールに疑問がある場合、それにグチグチと文句を言う事もできますが、そのルールの成立経緯を聞いてある程度腹落ちさせることで、対応を「やりきった」と言えるでしょう。

逆にそれでも納得がいかない場合は「この会社に居るためには守らなくてはならないルールだ」と割り切る事もできますし、「こんなルールは変えるべきだ」と他の人々を巻き込んで変更を提案することもできます。

その良し悪しはケースバイケースだと思いますが、最も悪いと思われるのは「変えられないと知っていながらグチグチ文句を言う」。つまり振り出しに戻って進む気もないケースだと私は考えます。

正しい変化とは

はっきり言うと「ルールを変えられないならルールに従う努力をするしかない」と私は思っています。

変えられないとわかっていてそれに文句を言う人は周りにもそのマイナスの空気感を伝播させるものですが、それにはプラスの効果はないと言えるでしょう。

こうして言うと昨今の差別反対系のニュースや世情の否定と取る人もいるかも知れませんが、私はルールを変えようとする人を否定しているわけではありません。

ルールを変えようと周りを巻き込み、正式な手続きのもとで変更しようと頑張る人は、それが通るか通らないか、私が反対するか肯定するかは別にして正しいことをしていると思います。

文句をいうだけか、変えるために正しく努力するかには次元が違うレベルの差が生じると思います。

やるか・諦めるかを選択するために

ここでルールが変更できない場合の「割り切り」の話に戻ると、個人で変えられるのは自分の中のルールだけです。

ここを変更することで自分の居たい集団に属することができる、あるいは集団に迷惑をかけて爪弾きにされるリスクを回避できるなら、それが一番手っ取り早いわけです。

それがもしその人にとってどうしても曲げられないルールだとしたら、集団を去るなりそこで厄介者と扱われるリスクを取らなければなりません。

そしてこの二択の決断を下すためには前述の「割り切るための努力」が必要になります。

集団の性質、ルールの意味、その他諸々を理解する中で「こうすればルールを変えることができ、それでみんなが喜ぶ」と考えればそれをやればいいわけです。

逆に、「これは周囲の納得は得られない」と思ったなら自分の中で割り切って、諦めましょう。

文句を言うエネルギーを他のことに使ったほうが、自分にとっても周りにとっても有益なはずですから。

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