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私の道の歩き方

はじめに


「道」という言葉は、日本人にとって比較的親しみがあると思っていた。

「人生は道だ」とか、茶道・華道・書道・剣道・弓道‥
日本では「道」で表現される営みやその体系が多い。

茶道は tea ceremony, 華道はflower arrangement, 書道はcalligraphyと、訳すると消えてゆく「道」の感覚、それはおそらく日本人にとって、すっと心に染み込みやすいものなんだろう。


そんな「道」の感覚をもっと知りたくなり由来を調べていたら、とても興味深く、また思うところがあったのでnoteに残そうと思う。

⚠️ attention

結論にゆきつくまでに、非常にオカルティックであったりグロテスクな表現が出てくるが、それはそれであるので、そのまま書く。

ので、、、そういうの苦手な人は読まないことをおすすめします。

そもそも「道」という文字が出来上がった当時の世界は甲骨文字で、甲骨文字は主に呪術や占卜に用いられていたので、「科学」のフィルターを通すとどうしてもオカルティックになってしまう。

そしてそのプロトコルのほうが、自分と世界の認知を表現しやすかったので、当noteはオカルティックな語彙と比喩が多い。

(ちなみに私は特定の宗教はないです‥神社いったらお守り買ったりおみくじひいたりするかな〜くらいのレベル感)


道の成り立ちは生首を持った行進


漢字の「道」を分解すると、部首である「辶(しんにょう)」、それから「首」となる。

しんにょうは進むという意味で、首は文字通り人の首である。

道は会意文字だが由来は象形文字であり、その景色は見た通り、首を持って進む様から来ている、らしい。

本来は「道」そのものが呪的対象であった。ただ自己の支配する領域では、そういうことはやらんのです。支配の圏外に出る時には、「そこには異族神」がおる、我々の祀る霊と違う霊がおる」と考えた。だから祓いながら進まなければならん訳です。

『呪の思想』白川静、梅原猛


道は、自己の領域から、外の世界にでてゆく道のことを指していた。
ちょっと、感動してしまった。


私は、世界にそのままつながることができない


「私」は生まれ落ちてから死ぬまで「私」の目でしか世界を見られない。見るというのだって、世界という外側の刺激に対して能動的に行っているというよりは、対象物の存在に対して知覚や認知が立ち現れている、いわば「理(ことわり)」であるから、能動的に「観る」ことをしなければ、私は自我のフィルターを通して色がついてしまった世界しか目に映していないのだ。

先日、知人が嫌いな人間を形容してこんなことを言っていた。

「あの人はもともと自己中心的で打算的で嫌なやつだとおもっていたけど、最近ますます心の醜悪さが外側に出てきて悪い顔をしている。」

それはおそらく、知人の感情の色が濃くなって、フィルターの色も濃くなったんじゃないかな、と思った。
フィルターってのはそういうことだ。
憎しみを持ってみつめればどんどん憎しみの色を帯びる。

私は、それ自体を「悪い」と思わない。
身体感覚や感情を認知と切り離すのは修行でもしないとまず無理だろうと思うし、感覚や感情は自分に対してのアラートというか「あいつに近づくと私の安全が危険だぞ」みたいな警鐘の役割を無意識でやってくれてると思ってるから、感情が起こっていること自体を否定しようと思わない。

ただ、それはあくまで私の心が作り出した世界を見ていることを忘れたくはない。メタ認知とでもいうのだと思うけれど、自分以外の人も、またその人のフィルターをもってしか世界を見ることはできず、そういったひとつひとつの「私」たちが集まって、世界にアクセスしながら私たちは生きていることを、忘れないでいたい。

私も、誰でも、自分というフィルターを通さないと、外の世界を見ることができないのだ。

そのうえで。
私も、世界に接続したい。
世界を私が私の中で感じ、受取り、外の世界にたとえば言葉でアクセスする。

そのときに通るのが、「道」だった。
道はもとより、自己以外の領域に接続するためのものだったのだ。

私はひとりで、どんなに私が誰かを愛そうと、愛されようと、理解を得ようと試みようと、根源的に私は私以外であり得ない。

だからつながるのだ。

祓わないために、領域に線を引かない


人はもともとひとりなのに、どうして他者を囲いまた別の他者を排斥するんだろう。

私は排斥のために道を歩きたくない。
「異族神」だろうと、はじめから祓う姿勢でいたくない。

だけど、ここは本当に、古代の呪術的な感覚がわからないからそんなふうに思うのであって、もしかすると本当に、さまざまな「流れ」があって、自分とちがう「流れ」に飲まれるとそのまま溺れ死んでしまうのかもしれない。

そのへんは全然わからないから、ただ、古代の人は「道」を歩く時には「首(魔除け)」を持ってお祓いをしながら外の世界に接続して行ったんだなと思いを馳せている。

そしてふと、「領域」ってなんだろうと思う。
領域とかあるから、そこの「内側」「外側」が生まれるんじゃないのか。

本来内側は「私」の世界で外側に線なんか引かれてないんじゃないか。
そこに勝手に線を引いておいて、内側から出るときには祓うなんて、自分の呪いに自分が縛られているみたいだ。

だからそんな呪いを少しでも生まずに歩いて行きたいなと思う。

世界にあんまり線を引かずに生きていきたい。


私と世界をつなぐ道としての、言葉


この先の人生、せっかく生まれたので色々味わいたい。
感情とか感覚とか、失敗もよろこびも。どうせ感じるのは「今」と「思い出」で、死んだらなにもなくなる。
それなら味があるうちに味わいたい。

そしてもう一つ、
できることなら命があるうちに、その時間を使って世界の役に立ちたい。

そうやって世界に接続するための道は、私の外を向いていたと知って、ちょっと感動してしまった。


私は言葉を発する。
私にとって言葉もまた世界に接続する道だ。

これは個人的に、その道に、その言葉に、できれば私は「首(魔除け)」を載せたくない。
もちろん、自分の心身は守らなくては生きていけないけれど。

私の認知する世界に引かれた線を溶かして飲み込む、そうやって道を歩いていきたい。

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