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名人が残したざわざわ感~映画『パラサイト』を観て~

注目の講談師・神田松之丞氏が、先日テレビでこんなことを語っていた。
「上手(じょうず)と名人(めいじん)は、違います。上手というのは、話したその場で『上手いなぁ』と思わせる人。一方で名人は、講談を聞き終わった後、だんだんさっきの話の内容が気になってくるような語りができる人。名人の講談を聞いたお客さんには、その日の夜、眠れなくなってしまう人もいるっていうくらいで」。

なるほど、おもしろいなぁと思って、ふと「じゃあ、あの人は間違いなく名人だ」と浮かんだのが、先日観た映画『パラサイト』の監督、ポン・ジュノ氏だ。

監督の映画をほかに観ていないが、とにかく『パラサイト』を観終えた後からわたしのなかにずっと残っている、余韻などという心地よいものとは違う「胸のざわざわ感」が、ものすごい。
足裏に小さな棘が刺さり、それがふとした瞬間にチクッと痛い、そんな「ちょっとイヤな違和感」が体内に残り続けている。
「名人の講談を聞いたら眠れない」という感覚は、もしかしたらこういうことではないのか。

臭いをたしかに嗅いだ気がした

映画は、最初から最後まで気を緩ませる隙を一瞬も与えない怒涛の展開でもってたたみかけてくる(結末は書きませんが具体的なシーンには言及するのでネタバレ注意です!)。

個人的に一番印象に残っているシーンは、裕福なパク家のリビングのテーブルの下に、貧乏なキム家の父、息子、娘が川の字になって身を隠すシーン。家族であることは隠して、それぞれが主人の運転手、娘の家庭教師、息子の家庭教師として雇われている身で、その日その家にいていいのは、家政婦として雇われている母だけだ。しかし留守宅で家族4人で酒を煽り宴会を繰り広げ、そこへ予定を変更した主人一家が帰ってきてしまう。さらに運の悪いことに、隠れているテーブルのすぐそばのソファに主人と妻が寝ることになるのだ。

絶対に存在を感じ取られてはいけないという極限の緊張状態で、親子は息を殺して、しばらく夫婦の会話を聞かされることになる。

普段は、金持ちだからといって威張ることもなく、使用人にも親切に接してくれている夫婦だが、主人のほうは運転手の男(川の字になっている貧乏家族の父親)の「臭いだけがツラい」ともらす。
あまり気にしたことがないわ、と返す妻に、「あれは何というんだろう……干した大根のような」「雑巾のような」「地下鉄に乗ったときみたいな」などと比喩を並べながらその臭いを描写するのだけれど、そのとき本当にスクリーンから独特の体臭が漂ってくるような感覚に陥った。

富める者が、貧する者を無自覚に蔑んでいる(そもそも至近距離に使用人たちが隠れているなどと知らないのだから罪はない)その言葉を、子どもたちと並んでじっと聞かなければいけない父親の屈辱感たるや、想像を絶するものがあった。
その少し前まで、ほろ酔いで「それにしてもよく騙される家族だよな、金持ちなのに」「金持ちだからこそだよ」と、自分たちの偽装を疑いもしない純真な雇用主をバカにしていたのが、一瞬で態勢が逆転してしまっている。

耳を塞ぎたくなるような話を聞かされながら、その場を逃げることも、怒りの声を上げることもできない。観ているこちらの体にまでいやな汗がじっとりとにじんでくるような、こんな映画をよくまぁつくれるものだと、ポン・ジュノ監督に尊敬すら抱いてしまう。

たくましい貧困家族と危うげなセレブ家族

この映画を好きか、と聞かれたら、ちょっと戸惑う。
でも、この映画がおもしろいか、と聞かれたら、迷わずYesだ。
長年映画を観てきて、こういう感覚を味わったことがない。おもしろい映画と好きな映画は、たいていイコールだったから。

もう一つ、印象的だったこと。

格差社会の断絶を描いたこの映画において、下層社会に属するキム家の方が家族のチームワークがよく、その貧困を極めた生活さえもどこか楽しんでいるような明るさとたくましさが感じられるのに、裕福なパク家の方は家族の関係性がなんとなく脆くて不安定で、全員がバラバラな方向を向いているような危うさがあった。

お金があることと、しあわせであることは、やはり別の話なのかと思ったけれど、そうしたメッセージを監督がこの映画に込めたのかどうかはわからない。

とにかくこの映画を観てから2週間以上が経つというのに、まだこんなに胸をざわざわさせながら、この文章を書いている。これはやはり「名人の作品に触れた」と言えるのではないだろうか。

数日後に開催される米国アカデミー賞で、この作品がカンヌ映画祭パルムドール受賞に続きどんな世界的評価を受けるのか、とても楽しみだ。

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