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タクシーにまつわる3つの小噺

先週、仕事先の忘年会に参加した後、友人と2軒目に流れて、終電で帰り、最寄駅のタクシー乗り場の行列に並ぶ、なんてことを久しぶりにやった。

東京に住んでいたころは日常的に乗っていたタクシーだけど、今はとんと縁がない。郊外の土地は東京とはサイズ感がまったく違う。つまり、近所の感覚で気軽にタクシーに乗ったら、実際は自分が思ってた以上に距離があって、すぐに数千円レベルだ。
それに今の生活、実家との行き来、買い物、娘の塾の送迎、すべて車なしには成り立たず、毎日自分で運転しているため、タクシーの出る幕がない、ということもある。
たまに帰宅が夜遅くなっても、バスがあるうちに帰ってくることがほとんどだし、終電に乗ること自体が新鮮で、「こんなのいつぶりだろうか」と、ときめきすらおぼえてしまった。

プロの勘がはたらく夜


さておき、寒空の下、行列に並ぶこと15分。わたしが乗るはずのタクシーのドアが開いた。車内はきれい、よし。匂いも大丈夫、よし。そして運転手さんも「当たり」だった。

時節柄、タクシーは書き入れ時。真夜中というのに駅前の通りは混雑していて、しかしその運転手さんは「おぉ、わかってるね」というツウな裏道を使いこなし、ぐいぐいと進んで行ってくれる。そんなわたしの満足感が伝わったのか、それとも酔いが残っていて思わず「いいですねぇ」なんて言葉が口をついて出たのか、運転手さんが得意気に話してきた。

「この商売、30年以上やってますからね。こういう日はいかに効率よく稼ぐか、勘がはたらくんですよ」

ほぉ、たとえば? 

「今、あれだけ長い行列だったでしょ。それ見て、行列に並ばずに歩き出した人も、いますよね。その人たちが駅に戻ってくるタクシーを捕まえようとするんだけどね、ぜったいにそれに止まっちゃだめ。だから、お客さん(わたし)を送ってまた駅まで帰るときは必ず『回送』にしますよ。うっかり『空車』を出したままで、止まらないと、乗車拒否になっちゃうからね」

なんで途中で乗せちゃ、だめなんですか?

「行列に並ばないで歩き始める人は、つまりは歩こうと思えば歩いて帰れる距離なんだよね。こっちは長距離のお客さんを何人乗せられるかで一晩の稼ぎが変わってくるわけだから、そんな近距離の人をちょこまか乗せて、時間が食われたら、もったいないってこと」

なるほど、なるほど。

「でさ、あの駅の長蛇の行列。今1時でしょ。このあと4時、5時までは続くよ。なんでかって、タクシーの行列すごいし、この駅でもう一軒入って時間潰そうか、っていう人もいるわけ。それで、1杯で店から出てくる人、2杯、3杯飲んで出てくる人がつねに列をなして、4時、5時まではあんな調子だね、ぜったい。それで最後、明け方に遠くのお客さんが乗ってくれたら、今日は最高だね」

へぇぇぇぇ。さすが、考察が深いですね。

「もっと言うとさ、行列に並んでいる人が100人いたら、その中で5000円以上の長距離乗る人も、ばっちり当てられるよ」

えぇ! それ、すごいんですけど……

「なんかそういう、サインみたいなの? うまく言えないんだけど、運転席からでも、見えるんだよね。長くやってると、そういう勘もいつのまにか身に付くみたいでさ」

……なんて話したところで、着いた。
駅からうちまでは、深夜料金だと1500円を超えてもいい距離なのに、メーターは1370円。この人プロだわ、と感心しながら(同時に、彼の言う「ちょこまか距離」でちょっと申し訳ないなと思いながら)支払いを済ませて車を降りると、「今日は稼ぐぜ」とやる気に満ちたアクセル音とともに、車はあっという間に去っていった。

黙って行列に並ぶしかなかった15分は長く感じたけれど、その日の久しぶりの夜更かしは、最後の運転手さんとの会話まで含め、とても楽しかった。

名古屋弁に触れた愛しい時間


タクシーといえば、思い出すことが、もう2つ。
その2つは、ほとんどセットなのだけれど。

それは明るかった義父のことと、名古屋弁のこと。
夫は名古屋出身で、しかし実家は、愛知県民には超めずらしく自家用車を持っていなかった。結婚が決まってから、義父が亡くなるまでの7年間は、帰省するたびに、外食する店や親戚の家など、義父母といっしょにタクシーであちこちへ出かけた。

義父の思い出はいっぱいあるけれど、なかでも印象深いのが、タクシーでは必ず助手席に乗り込み、どんな運転手さんとも楽しげに会話をしていたことだ。
球場に足繁く通うほどのファンだった中日ドラゴンズの試合結果の話から、工事中の道路、新しくできる店や施設の話まで、「お義父さん、その運転手さんと知り合い?」と思ってしまうほど自然に、とめどなく話していた(実際は誰とも知り合いではなかった)。
わたしはそれまでほとんどなじみのなかった名古屋弁のリアルな音としての響きに、義父とタクシーの運転手さんの会話を聞いて触れた、といっていいかもしれない。
名古屋弁って、なぜかおちょくられたりもしがちな方言だけれど、少なくともわたしは、名古屋弁独特のゆるやかに音と音がつながっていくあのトーンを、義父のなつかしい声とともに、心地よくて愛すべきものとして受け止めている。

義父が亡くなってからは、帰省先では夫と二人や、義母や娘といっしょにタクシーに乗るようになったけれど、やっぱり愛知(義父の亡き後、義母は豊田に約2年住んでいたので名古屋とはくくれない)のタクシーの運転手さんは、やわらかい話し方をする、感じのいい人が多いなという印象だった。というか、かなりの回数を乗っているはずだけど、ぶっきらぼうな人に会った記憶がない。県民性なのかな?

いずれにしても、タクシーのなかの時間って、そのとき感じている以上に、自分のなかに鮮やかな残り方をしているものだと思う。だから先週末、終電の後に乗ったタクシーは、そういう意味でもよかった。ぐいぐいと切れ味鋭いコメントや運転は、愛知の運転手さんのほんわり感とは、まったく対極にあるものだったとしても。

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